【内田雅也の猛虎監督列伝(15)~第15代・後藤次男(第1次)】「つなぎ」のクマさん

[ 2020年5月4日 08:00 ]

1968年11月26日、球団事務所での約5時間の話し合いの後、コーチ兼任を受諾した吉田義男(左)、村山実(右)と握手を交わす後藤次男監督

 闘志も情熱もうせた藤本定義は1968(昭和43)年10月21日、秋季練習中の甲子園球場に背広姿で表れ、記者団を球場内喫茶室に招いた。コーヒーを飲みながら「健康上の問題」と突然の辞任発表を行った。2日前、球団社長・戸沢一隆に辞意を伝えていた。

 出張先東京から帰阪したオーナー(電鉄本社会長)・野田誠三は23日、辞意を了承のうえ公言した。「鶴岡一人氏が最適任と考え、交渉します」

 「親分」と呼ばれ、歴代最多の監督通算1773勝をあげた鶴岡は19日限りで23年間監督を務めた南海(現ソフトバンク)を退団していた。すでにスポニチ本紙評論家とNHK解説者に内定、無理が見えていた。26日、阪神電鉄本社で会談したが、鶴岡は「堪忍してくれ」と固辞した。

 監督不在のまま高知・安芸での秋季キャンプに入り、退任した藤本もトレーニングウエアで見守った。ようやく11月19日、新監督にヘッドコーチ・後藤次男の昇格を発表した。発表が大阪で、後藤本人は安芸にいるという奇妙な会見だった。

 後藤は熊本工―法大を経て48年に阪神入り。49年から4年連続で3割を打った。座右の銘とする「斗魂」(闘魂)、「努力」は実直な人柄を表している。57年限りで引退し、解説者や2軍監督やコーチを歴任していた。

 後に現役の吉田義男と村山実のコーチ兼任が発表となった。後藤は自身を「つなぎの監督」だと自覚していた。村山は著書『炎のエース』(ベースボール・マガジン社)で<これでは、まるで、村山と吉田と監督レースが始まりますよ、と世間に公表するようなもの><どこか奥の院からの指令なのだろう>と記した。吉田―村山の対立の構図が顕在化したことになる。村山は春季キャンプで「投球に打ち込めない」と投手コーチを返上、後藤は了解し、2軍コーチの藤村隆男を1軍に引き上げた。

 新監督・後藤で迎えた69年の注目はドラフト1位で入団した田淵幸一だった。後藤にとって法大の後輩にあたる。春先、結果の出ない田淵と「ダンプ」辻恭彦、時に「ヒゲ」の辻佳紀と3捕手をやりくりした。田淵は主に6番、終盤3番で起用し(4番は全試合ウィリー・カークランド)、22本塁打で新人王。後藤は大物ルーキーに上々のスタートを切らせた。

 シーズン中、球団は不可解な動きを見せる。巨人と首位争いを演じていた8月末から9月にかけ、戸沢やスカウト・佐川直行、さらに別の密使が少なくとも3度、鶴岡と接触したのだ。前年秋に続く監督要請だが、鶴岡の答えは依然「ノー」で「後藤もがんばっているじゃないか」と法大の後輩を気にかけた。

 接触は表に出た。「仏のクマさん」と呼ばれた温厚な後藤もさすがに怒りを抑えられなかった。奥井成一の『わが40年の告白』(週刊ベースボール)にある。「オレは中継ぎ、スペアということは百も承知で監督を引き受けた。それがどういうこっちゃ。優勝争いに割り込もうというとき、球団はオレをはじき飛ばそうとしている」

 9月20日からの巨人との4連戦で1勝3敗し、優勝の望みは断たれた。最終2位で、巨人とは6・5ゲーム差だった。田淵人気もあり、優勝した62、64年に次ぐ、球団史上3度目の観客動員100万人を突破した。

 鶴岡招へいはすでに表面化しており、野田はシーズン最終戦の10月16日、甲子園球場で「鶴岡氏と交渉を持ちたい」と公表した。鶴岡はワールドシリーズ取材で渡米中。24日に帰国したが、阪神が動いたのは11月3日だった。戸沢が堺市の鶴岡邸を訪れた。鶴岡は後に「世間話をしただけ。監督就任の話なんてなかった」と明かしている。毎日新聞記者だった玉置通夫は『これが阪神タイガース』(三省堂書店)で<ワンマンだった野田の思いつき>と断じた。

 球団は元より鶴岡招へいは無理と承知しており、コーチだった山田伝の監督昇格を野田に提案。その準備で安芸での秋季キャンプの指揮を執らせていた。ただ、この案も野田に一蹴される。
 解任を承知していた後藤はシーズン終了後「指導に来いと言われへんのや」と、球団からは何の連絡もなかった。好きなマージャンをして過ごしていた。=敬称略=(編集委員)

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