【内田雅也の猛虎監督列伝~<9>第9代・藤村富美男】大功労者の「ミスター」を襲った「排斥運動」

[ 2020年4月28日 08:30 ]

内紛終結で写真撮影に応じる(左から)金田主将、戸沢代表、藤村監督(1956年12月30日、阪神電鉄本社)=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 1955(昭和30)年シーズン中の5月21日、岸一郎の休養(事実上の更迭)で代理監督で再び選手兼任となった藤村富美男は随所で輝きを放った。先発投手が初回先頭で四球を出すと交代させ、自ら代打逆転3ランを放った。同点の9回表1死三塁で自らセーフティーバントで決勝点を奪った。サヨナラ本塁打もサヨナラ打も放った。

 39歳の奮闘だったが、チーム内には「いいところは自分ばかり」「選手にはボロカス」といった声が漏れ聞こえた。
 正式に監督(選手兼任)となった56年は内紛の火種がくすぶるなかでのシーズンだった。

 甲子園球場に照明設備が完成、初ナイターとなった5月12日巨人戦は観衆発表7万のなか、勝利で飾った。6月24日の広島戦(甲子園)は0―1の9回裏2死満塁で三塁ボックスにいた藤村は自ら「代打」を告げ、史上2人目の代打満塁逆転サヨナラ本塁打を放った。

 チーム内の不穏な空気に球団は何かと手を打った。首位にいた8月20日は東京から大阪への移動で初めて飛行機を使った。球団は大阪・梅田新道の「ヘンリー」で選手全員にフルコースディナーを振る舞った。2位が確定した後の9月30日、広島戦(広島)の試合後には宮島口「一茶苑」で慰労会を開いた。奥井成一は<内紛を解消するための考えもあったのではないか>と記す。監督と選手の間で腐心した球団代表・田中義一はシーズン終了直後、病床に伏した。

 火種はオフに燃えさかった。選手が球団に監督退陣を要求した「藤村排斥運動」である。11月2日、大映監督に就任した元監督・松木謙治郎が来阪。「祝う会」に集まった主将金田正泰、真田重蔵、田宮謙次郎、白坂長栄、小山正明、吉田義男らから批判が噴出した。

 マネジャー青木一三は大阪・京町堀の金田宅にこの「絶対にクビにできない13人」を集めた。「排斥派」として連判状「藤村監督退陣要求書」を作成、オーナー・野田誠三に提出した。青木は著書『プロ野球どいつも、こいつも』(ブックマン社)で<デイリースポーツと報知新聞に流した>と両紙が11日付で報じ内紛は表面化した。

 「選手の殊勲を監督の手柄にする」「打撃練習で長い時間打つ」など非難し「チームの明朗化」をスローガンに掲げた。

 新聞報道に藤村は「騒ぐ選手は来季2軍に落とす」と言い、選手側が硬化する悪循環となった。

 球団は入院中の田中に代わる新代表・戸沢一隆が事態収拾に動いた。「黒幕」として青木、「首謀者」として金田、真田を解雇し、火に油を注いだ。セ・リーグ会長の鈴木龍二は巨人の川上哲治、千葉茂に仲介を依頼。大阪入りした川上は金田に「やり方が違う」、藤村に「金田を帰してやれ」と勧めた。藤村は球団に金田復帰を進言。金田は再契約し、連判状撤回に応じた。収拾は年末12月30日。戸沢、藤村、金田が声明文を発表、握手を交わした。約50日に及ぶ内紛騒動だった。

 <すべて円満解決したのである>と松木は著書『タイガースの生いたち』(恒文社)で書いた。プロ4年目、22歳の若手だった吉田は著書『牛若丸の履歴書』(日経ビジネス人文庫)で<あの騒動は一体何だったのだろうか><何を要求するのかいまひとつ理解できなかった>としている。

 迎えた57年。藤村監督専任となった。最終成績は最後まで首位争いを演じ、優勝した巨人に1ゲーム差の2位だった。藤村は来季続投のつもりで秋のオープン戦に臨んでいた。11月24日、広島での「パ・セ交流ダイヤモンドシリーズ」で南海にサヨナラ勝ちした試合後だった。宿舎で藤村は戸沢に呼ばれた。新監督にカイザー田中義雄を迎えるという。藤村によると「もう一度現役で働くなら監督に田中氏を招くが、という話だった」。契約は11月末まであるので「発表は待ってほしい」という藤村を無視し、大阪に帰っていった。

 翌25日、大阪・梅田の電鉄本社で戸沢は田中新監督を発表した。南萬満の『真虎伝』(新評論)によると同席した藤村は<顔は真っ赤になり、手はワナワナと震えた>。

 青木は先の書で退団時<「来季中に藤村監督を解任してくれ」という要求を出した>と明かしている。南は功労者への失礼な球団姿勢を批判しながら<排斥騒ぎに対してのペナルティーを1年後にこんな形で科したということだった>と解説している。=敬称略=(編集委員)

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