【内田雅也の追球】独創と工夫の精神――大林宣彦監督と阪神電鉄に学ぶ

[ 2020年4月12日 08:00 ]

4月12日が開業記念日の阪神電鉄
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 訃報が伝わった映画監督・大林宣彦が学生時代、8ミリで初めて映画を撮ろうとした題材は野球だったという。

 戦後、憧れの人物は総理大臣・吉田茂、「フジヤマのトビウオ」古橋広之進、「赤バット」川上哲治。なかでも<日常的に少年が憧れていたスターは野球の川上>。<それで、よし野球を撮ろうと決めました>と『大林宣彦の体験的仕事論』(PHP新書)にある。

 黒澤明ならクレーンを使って撮ると考え、単なる先人のまねでは意味がない。小さく丸い機械を眺め「待てよ、これはキャメラ自身が野球のボールじゃないか」と思い立った。崖の上から夕日に向かってカメラを放り投げた。下でグローブを手にした仲間が受けとめる。夕焼け空に向かって飛んでいくボールの主観映像が撮れた。「誰もやらなかった映画を作る」という原点である。

 独創や工夫があるところに道は開ける。12日が開業記念日の阪神電鉄にも通じている。

 1905(明治38)年4月12日、大阪・出入橋―神戸・三宮間に電車を走らせた。社長・外山脩造の感激が舞坂悦治『甲子の歳』(ジュンク堂書店)にある。<開通祝賀式のあいさつに立った外山社長の眼に小さな水滴が一つ(中略)感激の涙の結晶であった>。
 乗客は予想以上に詰めかけ、満員で窓から体がはみ出すとの意味で「半身電車」と呼ばれた。

 開業後、ライバルの阪急や国鉄(現JR)とのスピード競争が激しさを増した。岡田久雄『阪神電鉄物語 球団経営に成功した鉄道会社』(JTB)によると、車両だけでなく<運転方法においても、阪神電鉄は巧妙であり、独創的だった>。

 編み出したのは「千鳥式運転」。阪神間を4区間に分け、列車に応じて第1区間のみ停車、第2区間のみ停車……という「半急行運転」だった。

 独創と進取の気性が阪神の持ち味だったのだ。甲子園球場建設も、プロ野球参入も、先人たちの夢が詰まっていた。

 常に明日を見ていた大林宣彦が残した言葉にある。「未来に向って飛び出す勇気と知恵がどこから来るかというと、未来と同じくらい長く、深い過去の歴史から学ぶことで湧き出てくるものです」

 新型コロナウイルスの感染拡大で明日が見えない日々が続く。阪神も活動は止まったままだ。今は先人の夢や独創を学び、勇気と知恵を生み出したい。=敬称略=(編集委員)

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