【球春ヒストリー(5)】1995年・報徳学園 震災後の夢舞台「ワンチーム」で万感勝利

[ 2020年3月24日 08:30 ]

95年選抜、(右から)報徳学園、神港学園、育英の地元兵庫勢3校が出場した
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 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の影響で開催が危ぶまれた第67回大会は「復興・勇気・希望」をスローガンに、地元兵庫から異例の3校が出場。94年4月に母校の報徳学園監督に就任し、甲子園初さい配だった永田裕治氏(56)にとっては指導者としての「原点」となった春でもある。

 「(大会を)本当にやっていいのかなというのは思っていた。練習もほとんどできなかったし、とにかく一生懸命やろうと。でも、キャッチボールから笑顔を見せていた選手をみて、自分の目指す野球は間違っていないということに確信を持てた」

 永田氏自身も西宮市内の自宅で被災し地震発生当日の夜は妻と子どもを自家用車に乗せ、グラウンドのマウンド付近で一夜を過ごした。以降は安否確認できない生徒らをバイクで探し回った。グラウンドは隆起しノックバットが割れた地面に入り込んでいたといい、1カ月は全体練習もできず、選手もボランティア活動に従事した。

 育英、神港学園がともに勝ち、1回戦最後の試合で前年夏の甲子園大会8強で国体優勝の原動力となった好投手、岡崎がいた北海と対戦。6回まで無安打に封じられたが、0―3で迎えた7回に馬淵広陸の初安打を足がかりに1点を返すと8回には敵失2つと四球で2死満塁とし4番中野大志が右翼線にポトリと落ちる幸運な二塁打で3人が生還し、逆転に成功した。

 「何が何だか分からなかった。何とか勝たしてやりたいという思いがあったが、自分自身、舞い上がっていた」

 その裏の守りを無失点でしのぐと、ベンチを飛び出したという。「9回が終わったと思って…。ベンチ前に並ぼうとしたら、選手に“あと1回ありますよ”と。そのまま攻撃の円陣の輪に入って声を出していた。キャプテンみたいやった」

 5回途中から救援した土谷が9回も無失点で切り抜け、正真正銘の勝利を勝ち取った。涙をこらえながら歌った校歌は監督として歌った23度の中で「一番」と即答した。心身ともにつらい中で笑顔を忘れず、助け合いの心を持ち続けた当時のチームを「(ワールドカップ)ラグビー日本代表じゃないけど、ワンチームだった」と振り返る。モットーである「全員野球」がそこにあった。

 ≪天候の助けも≫北海戦の勝利は相手ミスに加え天候の助けもあった。先発の太田からバトンを受け4回1/3を2安打無失点の好救援を見せた土谷が当初の試合予定だった3月30日の前日になって左肘に痛みを訴えたという。ただ、雨天順延となり1日休養したことで「痛みが消えた」と想像以上に回復。調整不足が顕著だった投手陣において、永田監督が「いつもとは違う(早い段階での)継投」が可能となったことも勝因の大きなウエートを占めた。

 ◆永田 裕治(ながた・ゆうじ)1963年(昭38)10月18日生まれ、兵庫県出身の56歳。報徳学園3年時の81年に外野手として春夏連続で甲子園出場し夏は全国制覇した。90年4月から同校コーチを務め94年4月に監督就任。2002年春に優勝し17年春を最後に退任するまで甲子園通算23勝。今年4月から日大三島の監督に就任予定。

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2020年3月24日のニュース