「離島の名将」大分へ 伊志嶺吉盛氏、日本文理大附属高の監督就任

[ 2016年11月30日 13:45 ]

日本文理大附属高の監督に就任する伊志嶺吉盛氏
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 「離島の名将」が大分にやって来る。沖縄・石垣島の八重山商工高校野球部監督として06年に同校を春夏連続で甲子園出場に導き、今夏限りで勇退した伊志嶺吉盛氏(63=八重山ポニーズ監督)が、12月7日付で日本文理大附属高(大分県佐伯市)の監督に就任する。私財を投げ打ち、石垣島の野球文化の礎を築いた伊志嶺氏。「BASEBALL IS MY LIFE(野球こそが私の生活、人生)」と言い切る同氏が、新天地で再び甲子園を目指す。(東山 貴実)

 63歳の情熱は衰えるどころか、ますます燃え盛っているようだった。

 「私は教育者ではなく野球人。その野球人として、まだ完全燃焼していない。だから、監督を引き受けることに何のためらいもなかった。僕に中では野球が生活なので、野球ができるだけでいい。“BASEBALL IS MY LIFE”ですよ」

 伊志嶺氏の口調は力強かった。準々決勝で敗退した今夏の沖縄大会を最後に、20年近くにわたり指揮を執った八重山商工の監督を退任。それは自らの意思ではなく、若い指導者に切り替えたいという同校の意向を受けてのものだった。

 ただ、生まれてから一度も石垣島以外で暮らしたことがないだけに、不安や悩みが全くなかったわけではない。そんな時に、興南高の我喜屋優監督(66)から「伊志嶺!島を出なさい。1度出てみたら、島の良いところも悪いところも分かるから」と背中を押され、「御大がそう言ってくれるなら」と決断した。

 伊志嶺氏はいくつもの離島のハンディを乗り越え、06年に甲子園切符を手にした。なかでも金銭面の問題は大きかった。島内には3校しか高校がなく、どうしても実戦経験は不足する。そこで約400キロ離れた沖縄本土で練習試合や公式戦に出場するが、選手1人あたりの遠征費は年間40万円にものぼる。部費を充てようにも年間数万円。「保護者の方は大変だったと思う」と振り返り、石垣島の派遣事業として03年に八重山商工の監督に再就任した際には、自らゴミ収集業を始めた。

 さらに銀行から300万円を借り入れ、打撃マシンなどを購入。練習は土、日曜になると、早朝5時半から夜の8時まで。私財も時間も全て野球に注いだ結果が「離婚は“たった2回”しかしていません(笑い)」というバツ2で現在独身。それでも伊志嶺氏は「指導者はいろんなことを犠牲にしなければならない。その最たるものが家庭だった。後輩の指導者には“俺には家庭がないから野球にのめり込める”って言うんですよ」と屈託がない。ただ、決して家族から恨まれているわけではない。今年7月に1000万円で新たなゴミ収集車を購入したところに、日本文理大付の監督の話が舞い込んだが、三男・吉大さん(37)が「どうせ、オヤジは野球をしに大分に行くんだろ」と後を引き継いでくれたという。

 06年の甲子園出場を機に、全国の強豪校が石垣島に練習試合に訪れるようになり、道具も寄贈されるなど野球環境は一変した。一方で、翌年からは出会う島民全てから「今度はいつ甲子園に行けるんだい?」と声を掛けられ続け、それが嫌で「引きこもり」生活の時期もあったという。

 日本文理大附への監督就任を前に、11月5、6日にはナインと顔合わせを済ませ、寮で2日間寝食をともにした伊志嶺氏。今夏も八重山商工では部員は24人だったが、日本文理大附では3年生が引退した新チームで現在36人、来春に新入生が入部すると50人を超える大所帯となる。「大所帯だと競争意識は芽生えるが、反面、個人としての練習量は少ない。そのためにどういう練習をしていくのか」と思案の真っ最中だが、まずは冬場の徹底した体づくり。ナインにはこう言った。「辛く厳しい冬を我慢して乗り越えれば、夢叶う春が必ずやってくる。おまえらがオレを甲子園に連れて行ってくれ」と。

 伊志嶺氏は12月3、4日に石垣市で行われる第6回全日本コルトリーグ中学野球選手権大会まで八重山ポニーズを指揮し、7日に日本文理大附監督に正式就任する。「自分にとって最後の勝負。石垣島の子供たちと一緒に経験した時間を糧に、これまでの集大成を大分で、日本文理大付属高校でと考えている」と逃げ場のない覚悟を示した上で、「ここに来た限りは甲子園出場しかない。甲子園は人を、そして人生を変えてくれる場所。必ず3年内に結果を出したい」――。離島の名将が再び聖地を目指し、大分に全身全霊をささげる。

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2016年11月30日のニュース