失意の落選で殻を破った松井主将 5年分の思いを乗せた4トライ

[ 2021年7月28日 19:45 ]

東京五輪第6日   ラグビー7人制男子最終日 ( 2021年7月28日    味の素スタジアム )

韓国戦に出場した日本代表の松井千士主将(AP)
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 16年リオデジャネイロ五輪は最終選考で12人の代表から漏れ、バックアップメンバーとして現地まで同行した日本代表の松井千士主将(26=キヤノン)。ラグビー人生最大の挫折を味わった当時、在学中だった同大の監督を務めていた山神孝志氏(54)も、教え子が晴れ舞台で活躍する姿に目を細めた。

 五輪代表選手が発表された6月19日、山神氏のスマホが鳴った。「嫌な予感がしたよね」。5年前の“悪夢”は恩師の脳裏にもこびり付いている。「もしもし、ガミさん」。いつも通りの呼び名であいさつがあった後、松井は改まった声色で「5年越しで選ばれました」と報告したという。

 大阪・常翔学園3年次に全国制覇を果たし、鳴り物入りで松井が同大に入学したのは13年4月。時を同じくして監督に就任した山神氏は、スカウティングには深く関わっていなかったものの、「3年の花園の試合は見ていた。ボールを持ってから勝負ができる。スピードは抜群だった」と振り返る。秋のリーグ初戦の天理大戦は14番で起用。期待のルーキーはトライを取り、監督初陣での初白星に貢献してくれたことを「何かの縁を感じた」と懐かしむ。

 高2の時から高校日本代表に選出されていた松井は、大学進学後も各世代別の7人制、15人制の代表に招集され続けた。当時は線が細く、フィジカル強化が課題。春から夏に掛けては重点強化する育成計画を立てていたが、じっくり取り組む余裕はなかった。結果的に15年W杯に加え、リオ五輪では新ジャージー発表のモデルを務めながら、まさかの落選。当時の瀬川智広ヘッドコーチからバックアップメンバー入りの要請を受けた時、山神氏は「つらい思いをするぞ。それでもいいか?」と尋ねた。松井は二つ返事で、リオ行きを決めたという。

 仲間たちの4強入りをスタンドから見守ったリオからの帰国後、北海道で夏合宿を行っていたチームに合流。心身共に立て直す必要があると見た山神氏は、当初練習試合に出すつもりはなかった。しかし、夏合宿最後の筑波大戦で松井は出場を強く直訴。雨天で行われたその試合で左脚の付け根を痛め、大学最後のシーズンは前半戦を棒に振ってしまう。

 「出さなければ良かったが、最後は折れてしまった。見返してやろう、という思いがあったのだと思う」

 一見クールに見えるが、大きな屈辱を味わい、本音を包み隠さなくなった教え子を「変わったと感じた」という。殻を破り、その後も紆余(うよ)曲折を経てたどり着いた晴れ舞台。代表入りの報告があった時、7月28日のチケットを抽選で入手していた山神氏は「いろんな思いをのせてメダルを獲ったら、俺はうれしいよ」と伝えたという。

 結果は12チーム中11位。メダルには遠く及ばず、「コロナ禍の中での五輪開催で大変な状況の方々に、自分達の勝利で勇気や感動を届けたかったのですが、悔しい結果になってしまい申し訳ないです」とコメントした松井。ただ、金メダルを獲得したフィジー相手に80メートルの独走トライを奪うなど、計4トライを記録。5年分の思いをぶつけた3日間の闘いは、恩師の心に届いているに違いない。

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