追悼連載~「コービー激動の41年」その80 世界を驚かせた「別れの手紙」

[ 2020年5月6日 08:30 ]

2015年11月に引退を表明したブライアント(AP)
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 2015年10月28日。ティンバーウルブスとの開幕戦に先発したコービー・ブライアントはこの瞬間、レイカーズ一筋に20シーズンにわたってプレーしたことになり、ジャズで19シーズンを過ごしたジョン・ストックトンの同一球団在籍の最長記録を更新した。29分の出場で24得点。しかし試合は111―112で敗れた。開幕前のプレシーズン・ゲームではまたふくらはぎを痛めて2週間休養するなど、37歳で迎えたシーズンは荒波の中を出航する船のようだった。

 フィル・ジャクソンやデレク・フィッシャーがすでにチームを去り、2008年2月にトレードで移籍し、2度のファイナル制覇に貢献したパウ・ガソルもブルズのユニフォームを着ていた。チームには経験の少ない若手が増え、ブライアントは“勤続疲労”と戦いながら最後の力を振り絞っていた。

 2015年11月24日のウォリアーズ戦。ブライアントのシュートはことごとくリングに嫌われた。放った14本のフィールドゴールのうち13本を失敗。25分の出場で自己ワーストとなる4得点に終わった。試合は77―111で大敗。そしてその5日後、ブライアントは大リーグのデレク・ジーター(元ヤンキース)が設立したプロ選手によるメディア・サイト「プレーヤーズ・トリビューン」に「DEAR BASKETBALL」というタイトルの“引退声明文”を投稿し、それはやがてアニメーション化されてNBA選手初のアカデミー賞(短編アニメ賞)を受賞する作品の中核となっていく。

 誰もが驚き、その一方で「いつかはやって来る」と覚悟していた1日でもあった。2勝13敗で迎えた開幕16戦目。ブライアントはブライアントらしいやり方でNBAに別れを告げる。たぶんもう自分の居場所を探すことができなくなっていたのだと思う。

 引退表明でありながら印象的なポエム。それはスポーツ界で誰もしたためたことのない“別れの手紙”だった。

 「決勝のシュートを想像しながら父の靴下を丸めて放り投げていた日から、ひとつだけ真実に気が付いた。そう、僕は君(バスケットボール)に恋していた。とても愛していたから僕は心と体をすべて捧げた。君に恋した6歳の少年にはトンネルの終わりなど見えなかった。見えたのはそこから駆け出していく自分だけ。だから走った。君が誰の手からも離れてコートに転がると、僕はどこでも走っていった。君は“ハッスル”を求めたよね。そして僕はハートで応えた。なぜならそれがたくさん湧き出てきたからだ」

 「僕は汗を流し、ケガに耐えながらプレーしてきた。でもチャレンジ精神がそれを引き出したんじゃない。君(バスケットボール)が僕を呼んだんだ。そう、君のためにすべてのことを出し尽くした。だって君もそうだったから。僕は生きている実感がずっとあったし、たぶん君もそうじゃないかな」

 「君は6歳の少年にレイカーズという夢を与えてくれた。そして僕はいつも感謝している。でも、もうこれ以上、君を強く愛することはできない。与えられるのはこのシーズンだけ。心はドキドキしているし、仕事をこなせる能力もある。でももう体が“別れを告げるときだ”と言っているんだ」

 「OK、君と別れる準備はできた。今、知ってほしいんだ。僕らは残ったすべての瞬間を楽しむことができる。いいことも、悪いことも。お互いに持っているものはすべて与え続けてきたからね。そしてわかっているだろうけれど、次に何をやろうとも、僕はいつも隅っこに置いたゴミ箱に丸めたソックスを投げ入れる少年だ。残り時間は5秒。ボールは僕の手の中にある。5、4、3、2、1…。いつも愛しているよ。KOBE」

 バスケットボールを擬人化したラブレター。それをもって引退を表明する意思を示した歴史的な“手紙”だったと思う。このあとブライアントはこのあと最後の旅に出た。そして現役生活の最後に待っていたのは悪いことではなく、とびきりの“いいこと”だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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