追悼連載~「コービー激動の41年」その16 始まった激動の1年 オニールも加入

[ 2020年3月3日 08:00 ]

故ブライアント氏の一般葬儀に参列したウエスト氏(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1996年のNBAドラフトでホーネッツが指名したコービー・ブライアントを譲り受けたレイカーズのジェリー・ウエストGMは大勢の記者が詰めかけた会見でコービー獲得に至った背景と、その後の展望をこう述べている。

 「この若者こそ、我々が長い間、求めてきた逸材の1人。ドラフトの前にはなぜ高校生を指名しようとしているのか?とよく聞かれたが、我々はより良いチームにしてくれる最高の選手を探していただけなのだ。5、6年後、ロサンゼルス市民はきっと彼を称賛しているはずだ。しばらくは出場時間は多くないだろう。だがコーチ陣は彼を上達させるために努力する。その過程には痛みもあるだろう。しかし我々にはこの挑戦を受け入れる準備ができている。そしてコービーは我々以上にその準備ができているはずだ」。

 チームの指揮を執っていたデル・ハリス監督もウエストGM同様、東海岸からやってきた少年に好印象を抱いていた。

 「もしどんな選手か?と問われれば、エディ・ジョーンズ(当時の先発シューティング・ガード)のような感じかな。明確なレッテルを今から貼ってしまうようなことはしないけれど、その答えさえも要求されるなら、クラーク・ケントの話でもしようかな」。スーパーマンの主人公の名を引き合いに出したことでもわかるように、ハリス監督もコービーの将来性には大きな期待感を抱いていた。

 過去を振り返ることができる今、この2人の誤りを指摘しておこう。ウエストGMは「しばらくプレータイムは多くない」と語ったが、それはおそらく首脳陣が考えた期間よりもはるかに短かった。ハリス監督は「エディ・ジョーンズのような感じ」と口にしたが、やがてコービーはこの世界で唯一無二のような存在になっていく。ファイナル優勝5回でそのうち2回でMVP、球宴18回選出でそのうち4回でMVP、シーズンのMVPにも1回、オールNBA(ベスト5)に11回、オール・ディフェンシブ・チームにも9回選ばれた。少なくとも18歳の少年をチームに引き入れたレイカーズの誰もがその後の未来予想図を描けなかった。

 華やかな新天地。このあとコービーは3年総額350万ドル(当時のレートで約4億円)で正式契約。その1週間後、マジックからFAとなっていた怪物センター、シャキール・オニール(当時24歳)もレイカーズとの契約に合意した。1996年の夏。引退→復帰という順路をたどって見事にファイナルで復活Vを遂げたマイケル・ジョーダン(ブルズ)に脚光が集まる中、ロサンゼルスにやって来た将来の看板スターは、はるか彼方に見える伝説の英雄を追いかけようとしていた。
 
 さてレイカーズへの入団が決まったコービーはサンタモニカにほど近いパシフィック・パラセイズという町に引っ越した。目の前がビーチで、当時の本拠地フォーラムのあるイングルウッドまでは15キロと職住接近を実現する理想的な場所。俳優のトム・クルーズやアーノルド・シュワルツェネッガー(現カリフォルニア州知事)らの自宅もあった高級住宅街だ。

 実はこの時、ラサール大のアシスタント・コーチを辞めたばかりの父ジョーと母パムも息子についてきた。ジョーはドラフト時に「息子を扇動して大学をあきらめさせた」と非難され、この雑音が苦痛だったようだ。続いてコービーの新居にやってきたのはともにバレーボールの選手だった長女のシャイアと次女シャリア。要するにブライアント家全員が東海岸から西海岸に大移動してしまったのだ。

 その理由については様々な憶測があり、父ジョーには「株の知識があったので息子の財産管理には最適だった」とも報じられている。でも本当にそうだろうか?おそらくこれはアフリカ系アメリカンに見られる特徴のひとつだと思うのだが…。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年3月3日のニュース