小出氏と有森さん 何度もあった衝突の末…ビル飛び降り未遂も

[ 2019年4月25日 08:15 ]

小出義雄氏死去

96年アトランタ五輪に出場する有森裕子(左)を激励する小出義雄監督
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 【悼む】走ることとお酒が大好きで、取材で話を聞こうとしてもろれつが回らないことは一度や二度ではなかった。当時は酔っぱらうと「(教え子が)世界記録を出したら俺は引退して実家で農業をやるよ」が口癖。高橋が01年に本当に世界記録を作ったが、その後も農業をやるどころか、日本のマラソン界のために最前線で陣頭指揮を執り続けた。常に素晴らしい教え子たちに囲まれ、本当に幸せな人生だったと思う。

 理想の師弟と言われた小出氏と有森さんには、実は表に出ない対立が何度もあった。マスコミへの対応を巡って言い合いになり、有森さんが本気でビルの屋上から飛び降りようとしたこともあった。後に有森さんは「なんであんなやつのために私が死ななくちゃいけないんだと思い直した」と教えてくれた。納得のいかないことは面と向かって反論する。そんな教え子のことを、小出氏はこっそり「有森先生」と呼んでいた。それでも有森さんが故障すると「痛いところは俺が全部もらってやるから」と励まし、自分の下から離れて独立しても有森さんのために練習メニューを作り続けた。

 父親として、気が強い長女の有森さんは自由にさせて底力を引き出し、自分に自信がなかった次女の高橋さんには一から十まで細かく指示してその気にさせた。選手個々に合わせた巧みな操縦術こそが小出マジックの秘けつだった。(1989~99年陸上担当、編集委員・藤山健ニ)

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2019年4月25日のニュース