ピンチはチャンス!ローマ五輪銅・田中聡子さん「泳げない」にコーチがかけた“復活の魔法”
2020 THE YELL レジェンドの言葉
今では当たり前になった「イメージトレーニング」や「インターバルトレーニング」を半世紀も前に取り入れていた先駆者がいる。競泳女子背泳ぎの竹宇治(旧姓・田中)聡子さん(77)は、まだ屋内プールも電気時計もなかった時代に創意と工夫で世界に挑み、60年ローマ五輪で銅メダル、64年東京五輪でも4位入賞を果たした。今も元気に泳ぎ続ける競泳界のレジェンドに、当時の苦労と喜びを聞いた。
幼い頃から立派なスイミングスクールに通う今の子供たちには想像もつかないだろう。竹宇治さんが泳いでいたのはプールではなく、故郷・熊本のため池や温泉だった。
「外のプールで泳げるのは5月から10月ぐらいまで。冬は阿蘇の外輪山近くの温泉にプールのような堀があったので、そこで泳いでいました。でも温泉だから水温は40度以上でしょ。もう熱くて泳いでいられないのよ…」
近所の池や川に潜って毎日遊んでいた少女はやがて地元の嘉島中に進学し、水泳部に入る。小6の時に校内大会で優勝した得意の背泳ぎで1年の夏に熊本選手権優勝。3年時には100メートルの中学記録も塗り替えた。福岡の筑紫女学園高に進学した直後の58年5月にはアジア大会(東京)でも日本新で優勝した。
ところが好事魔多し。夏頃から体調を崩してスランプに陥り、ドクターストップもかかって全く泳げなくなってしまった。当時、竹宇治さんのコーチは八幡製鉄の黒佐年明氏が務めていた。泳げない間、黒佐コーチは「おまえに魔法をかける」と言って200メートルの世界記録のラップを示し、「体は動かさなくていいから、目をつぶって頭の中でこのタイムで泳いでみよう」と提案した。最初の50メートルは36秒。次の50メートルは38秒。言われるままに竹宇治さんは頭の中で自分の手足を動かし、50メートルに達したところでポンと手を叩いた。途端にコーチから「何だ、今のは38秒もかかっているぞ」と怒声が飛ぶ。設定タイムで泳げるようになるまで毎日同じことが繰り返された。ピタリと泳げた時のご褒美は大好物のケーキだった。
12月になってようやく医師の許可をもらってプールに復帰すると、今度は「50メートルを42秒で泳いで30秒休憩。それを10本繰り返す」という新しい練習が始まった。次は40秒にペースを上げてまた10本。1本でも設定タイム通りに泳げなければまた最初から10本やり直し。さすがの竹宇治さんも「えー、ちゃんと見てたんですか?と、いつもコーチとケンカしていました」と言う。
当時としては画期的な「イメージトレーニング」と「インターバルトレーニング」の効果はてきめんで、本格的に競技を再開した2年生の夏の日本選手権で200メートルの世界新を樹立。翌60年7月の日本選手権でも再び世界記録を更新した。
18歳で挑んだ同年のローマ五輪は種目が100メートルしかなかったが、3〜5位が全員同タイムという激戦の末に見事銅メダルを獲得した。「当時はまだ手動計時で、6人の審判がストップウオッチと目視で順位を決めるというやり方でした。だからすぐに順位が分からず負けたかなと思って更衣室に引き揚げたら、しばらくして男性コーチが3位だぞと言っていきなり飛び込んできて。もうキャーキャー大騒ぎでした」
銅メダルを手に凱旋した竹宇治さんは高校を卒業後に八幡製鉄に入社。今度は地元開催の東京五輪で金メダルを期待する周囲からの強烈なプレッシャーに直面する。
「あの頃の水泳選手は20歳くらいまでがピークと言われていましたからね。東京では22歳。おばさん、まだ泳いでいるのなんて言われたこともありました。実際に記録も伸び悩み、周囲から頑張ってと言われるのが凄くつらかったです」
東京でも種目はやはり100メートルだけ。ライバルはいずれも10代の若手で、スタート前から竹宇治さんに勝ち目はなかった。
64年10月14日。「勝ち負けは気にせず自己ベストで泳ごう」と誓って臨んだ東京五輪は1分8秒6で4位に終わった。それでも竹宇治さんは満足だった。「金が無理だということは最初から分かっていたし、自己ベストを0秒8も縮めたんだから、これで胸を張って世の中を歩けるなと思いましたよ」
半世紀前と今とでは周囲の環境は全く異なる。だが、泳げないつらい時期を創意と工夫で乗り越え、地元五輪の重圧に耐えて自己ベストを出した竹宇治さんの軌跡は、今の選手たちにもきっと参考になるはずだ。
「今の子たちは本当によく練習してるから、何も言わなくてもきっと頑張りますよ。私は一時病気で泳げなくなったけど、そのおかげで記録を伸ばすことができました。誰だってピンチになることはある。でも、ピンチはチャンスなんです。ピンチを味わった人間は強いですよ」
≪200メートル正式種目になる前に引退…≫背泳ぎの200メートルは68年のメキシコ五輪から正式種目になったが、竹宇治さんは66年アジア大会(バンコク)の優勝を花道に現役を引退した。25歳の時に同じ八幡製鉄のバレーボール部で活躍していた清高さんと結婚。主婦業に専念し、3人の子供にも恵まれた。子供たちも水泳を始めたが「選手は大変。覚悟がないとできない。覚悟の前にそれが好きじゃないとできないから」と強制することはなかったという。
≪子供から高齢者まで水泳教室開催≫竹宇治さんは東京都江戸川区で水泳教室を開催するなど、今も元気に泳ぎ続けている。長女がぜんそくで医師から水泳を勧められたこともあり、まず福岡でぜんそくの子供たちのための水泳教室を開くようになり、89年からは江戸川区でも同様の教室を開催。現在は子供だけでなく大人から高齢者までを対象に、水泳を通じての健康づくりに積極的に取り組んでいる。
▼64年東京五輪VTR 64年10月14日に行われた女子100メートル背泳ぎの決勝は16歳のファーガソン(米国)とキャロン(フランス)、17歳のデュンケル(米国)に22歳の竹宇治さんが挑む展開となった。スタートはほぼ横一線。50メートルの折り返しでデュンケルが先頭に立ったものの、75メートルで逆にファーガソンとキャロンが抜け出し、最後は1分7秒7の世界新でファーガソンが優勝した。2位はキャロン。3位はデュンケルで、4位の竹宇治さんとは0秒6差だった。
東京大会での競泳のメダルは男子800メートルリレーの銅だけだったこともあり、翌15日のスポニチは「完敗に終わった日本水泳界」と厳しい見出しを付けているが、竹宇治さんに関しては「田中はよくやった。オリンピックでベストを出せるのはやはり田中ならでは」と称えている。
◆竹宇治 聡子(たけうじ・さとこ)1942年(昭17)2月3日生まれ、熊本県六嘉村(現嘉島町)出身の77歳。旧姓・田中。59年の日本選手権で200メートル背泳ぎの世界新記録を樹立。60年ローマ五輪では100メートル背泳ぎで、日本の女子競泳選手としては36年ベルリン五輪の前畑秀子以来2人目のメダリストとなる銅メダルを獲得した。64年東京五輪でも100メートルで4位に入賞した。
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