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【悼む】Jリーグ元年の衝撃は忘れない…世界のカマモト監督のゲキ熱“擬音指導”と“記者論”

[ 2025年8月10日 15:40 ]

G大阪初代監督時代の釜本氏
Photo By スポニチ

 1968年メキシコ五輪銅メダリストで、日本サッカー界を代表するストライカーとして活躍した釜本邦茂さんが10日に大阪府内の病院で肺炎のため死去した。81歳だった。同日にJリーグが発表した。京都府出身。2023年9月ごろから誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。昨年の秋に手術を受け、一時、回復したものの療養を続け、6月中旬に容体が悪化した。日本サッカー界のレジェンドの悲報。本紙歴代担当記者が釜本さんとの思い出を振り返り、故人の死を悼んだ。

 記者生活で初めて「監督」と呼んだのが釜本さんだった。1993年4月入社で、5月にJリーグが開幕。当時、関西で唯一のクラブだったG大阪のサブ担当になり、京田辺市にあった練習場で名刺を切った。

 第一印象は、威圧感が凄い。当時の監督は49歳。身長は自分と変わらないのに、現役選手をしのぐ肉体のごつさ、張り、何よりオーラに、最初から圧倒された。後に担当するプロ野球の星野仙一監督は、同じ闘将でも、オフモードは穏やかな空気をまとっていた。釜本さんは少し違う。こちらが新人だったこともあって、気軽に話しかけられない、緊張感が常にあった。

 グラウンドには、独特の野太い声がいつも響き渡っていた。全体練習後のシュート特訓は釜本監督の独壇場。「ちゃう。こうやってバーンと蹴るねん」「体をグイっと寄せて、ガーンとシュートいけ」。あの頃の選手によると、擬音の多い指導は理解するのが難しかったという。頭で考えるより、感性を大事にすることの重要性を伝えたかったのだと今になって思う。

 「他の記者と同じことを書くんやなくて、自分の目や耳で感じた原稿が読む人に伝わるんやないか」

 囲み取材で一度だけ聞いた「記者論」は、今も心に残っている。「世界のカマモト」は、プレーだけでなく、生き様や言葉で手本を示していた。
(1993~94、01~02、04~06年、大阪本社サッカー担当・堀田 和昭)

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