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銅のメキシコ五輪で主将…八重樫茂生さん死去

[ 2011年5月4日 06:00 ]

死去した八重樫茂生氏

 サッカーの元日本代表で、銅メダルに輝いた68年メキシコ五輪で主将を務めた八重樫茂生(やえがし・しげお)氏が2日午後1時10分、脳梗塞のため東京都多摩市の病院で死去。78歳。岩手県出身。選手としては3度の五輪に出場し、指導者としても活躍。日本サッカー界の発展に寄与した八重樫氏の訃報に、関係者は肩を落とした。

 八重樫氏は中大、早大を経て古河電工入り。卓越した技術は当時、日本屈指の呼び声が高く、56年メルボルンを皮切りに、64年東京、68年メキシコと3度五輪に出場した。本来はFWだったが途中から指令塔に転向。宮本輝紀氏(故人)とともにゲームを組み立て、FWの釜本邦茂氏(67)、杉山隆一氏(69)の得点を導き出した。

 練習から一切の妥協を許さなかった。11歳年下の釜本氏とのキック練習ではピッチのすぐ外が谷になっている場所に陣取り、キックが少しでもずれて転がり落ちると、その都度、拾いに行かせたという。釜本氏は「一つ一つのプレーを正確にということを叩き込まれた」と「センチメートルパス」の逸話を振り返る。

 東京五輪から主将を務め、個性派ぞろいの日本代表をまとめた。35歳で迎えたメキシコ五輪は初戦のナイジェリア戦で負傷。出場できない悔しさを押し殺し、黙々と若手のユニホームを洗った。「伝説の主将」と呼ばれるほど周囲から信頼され、精神的支柱として銅メダル獲得につなげた。

 67年に古河電工監督に就任。その後も日本ユース代表、富士通(現川崎F)の監督も務め、指導者としても手腕を発揮した。05年には第1回日本サッカー殿堂入り。06年からはJリーグ昇格を目指す東北社会人リーグのグルージャ盛岡の運営にも関わるなど、一生を日本サッカー界の発展にささげた。

 ▼日本サッカー協会・小倉純二会長 体調があまりよくないとは聞いていましたが…。大変、お世話になった人。また大恩人が亡くなってしまった。

 ▼埼玉県サッカー協会・横山謙三副会長(メキシコ五輪代表GK)体調を崩していたが、良くなってきて、そろそろゴルフをやろうと話していた。面倒を見てもらった大先輩。残念です。正確なキックで試合をコントロールしていた。八重樫さんがいたからパスでつなぐという意識が生まれ、銅メダルにつながった。代表の中では大人の存在で信頼の厚い主将だった。

 ▼静岡県サッカー協会・杉山隆一副会長(メキシコ五輪代表FW)来月(メキシコ五輪代表の)集まりでお会いするのを楽しみにしていました。残念です。八重樫さんは、メキシコの初戦(対ナイジェリア)でケガをして試合に出られなくなると自ら裏方の仕事をしてくださった。当時の代表は家族のようなチームで兄貴のような存在でした。

 <川淵会長も驚き>早大、古河電工で後輩にあたる川淵三郎日本協会名誉会長(74)は「驚いた。非常に寂しい」と話した。早大1年時の主将が八重樫氏で寮では同部屋だったが「かわいがってもらった。小間使いをやらされたこともない。4年生なら1年生にやらせるのが当然だった掃除や洗濯も自分でやっていた」という。日本代表でもともに東京五輪に出場した。「技術は当時の日本でNo・1。練習熱心で主将としても率先垂範。(他の選手が)まねできない選手だった」と懐かしんでいた。

 <釜本氏「偉い人でした」>メキシコ五輪の銅メダルメンバーとして日本サッカー界をともに支えてきた釜本氏も、八重樫氏の死去を悼んだ。昨年10月に会ったのが最後だったが「その時は元気でした。突然のことでびっくりしております」と言葉を失った。東京五輪とメキシコ五輪の主将を務めた故人を「偉い人でした。難しい人ばかり集まっていたのに、よくコントロールしてくれました」と振り返った。

 ◆八重樫 茂生(やえがし・しげお)1933年(昭8)3月24日生まれ、岩手県出身。盛岡一高から中大、編入した早大を経て古河電工(現J2千葉)に進み、主にFWや攻撃的MFとしてプレー。56年メルボルン、64年東京、68年メキシコと3度の五輪に出場。64、68年は主将を務め、メキシコで銅メダルを獲得。67年から古河の選手兼任監督に就任し69年に引退。その後もユース日本代表、富士通などで監督を歴任。国際Aマッチ通算44試合11得点。

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