舘ひろし 人生で一度だけ泣いて歌えなくなった「泣かないで」 避難生活送る人々の笑顔に…

[ 2021年3月10日 05:30 ]

東日本大震災から10年――忘れない そして未来へ(10)

東日本大震災について思いを語った舘ひろし(撮影・小海途 良幹)
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 東日本大震災から11日で丸10年。被災地にゆかりのある人々が「あの日」の記憶を呼び起こし、復興に向かう人々に思いをはせるインタビュー企画。第10回は震災直後、今年1月に解散した「石原プロモーション」の一員として被災地で炊き出しを行った舘ひろし(70)です。

 2011年3月11日午後2時46分。東京・渋谷のNHKでドラマの打ち合わせをしていた時、激しい揺れを感じた。その時は後の惨劇を想像すらしなかったという。

 「NHKが壊れることはないだろうとのんきに思ってた。大したことないだろって」。未曽有の被害をやっと理解したのは夕方。別の仕事で訪れた、自宅に程近い東京・三軒茶屋の現場で、津波の猛威を報じるテレビを見た時だ。「それまで津波被害の経験が全くないわけだから。これはなんだ、と」

 当時所属の石原プロは、1995年の阪神大震災時に炊き出しをしていた。震災翌日から「被災地に行こうというのはみんな何となくありました」。現地に迷惑をかけないよう食料、トイレ、水の準備を整えた1カ月後、計29台の車両で宮城県石巻市に向かった。

 目の前の光景にあぜんとした。ある区画を境に根こそぎ建物がない。ビルの上には流された車。「自然の恐ろしさをまざまざと感じた」。街を土ぼこりのにおいが覆う中、11年4月14日から7日間、石巻中央公民館を拠点に兄貴分の故渡哲也さんらと料理を振る舞った。

 舘の発案で出張もした。同16日、拠点から約30キロ離れた福祉センターを訪れた時、被災者のリクエストでヒット曲「泣かないで」を披露したが「不覚にも自分が泣いてしまって、歌えなくなった」。

 避難生活を送る人々の陽気さに「明るくしてないと自分に負けちゃうんじゃないか、と想像するとグッときて…。あの曲を歌って泣いたのは、人生それ一度きりです」。

 現地で、20歳前後の女性からもらった手紙が強く印象に残っている。手紙には炊き出しへの感謝とともに祖母と弟を亡くしたと書かれていた。「祖母の遺体が戻ってきた後、きちんとした葬式もしてあげられなかったと書いてあった。それが凄くショックでしたね」

 それでも、食事を頬張る被災者は皆、笑顔だった。「これほどの被害を受けても、なお立ち上がっていく。人間って強いな、ということを感じた」

 あれから10年。渡さんはこの世を去り、石原プロもなくなった。カレー5000人分を作ることができる、自慢の巨大寸胴(ずんどう)鍋など炊き出し用具も処分された。それでも「“心の寸胴”は捨ててない」と言い切る。

 最近、テレビで現在の石巻市を見た。かさ上げした土地に立つ新しい家。「奇麗にはなってるけど…。味気ないというと失礼だが、石巻の人たちはどういう気持ちでいるんだろうと思った」。被災者にはいまだ癒えない傷があるだろう。「申し訳ないと思っていることがあって、あれ以降一度も被災地に行けていない。何かしたいという思いはいつもあります」。時は流れても思いは変わらない。

 ◆舘 ひろし(たち・ひろし)1950年(昭25)3月31日生まれ、名古屋市出身の70歳。76年に俳優デビューし、83年石原プロモーション入り。「西部警察」「あぶない刑事」シリーズなど代表作多数。18年の主演映画「終わった人」で第42回モントリオール世界映画祭最優秀男優賞。11年の炊き出しではぜんざいを担当。16年の熊本地震に伴う炊き出しの際は不参加の渡さんに代わり焼きそばを担当した。

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