関東大震災で生まれた“日本版走れメロス”

[ 2016年4月10日 05:30 ]

 東日本大震災発生5年の被災地取材をしながら、過去の大震災に関する本を何冊か読んだ。

 中でも印象に残ったのが「典獄と934人のメロス」(講談社)だ。関東大震災で建物が壊れ、火災も起きた横浜刑務所が囚人934人を解放。全員戻って来たというノンフィクション小説だ。

 当時も今も日本の法律は、天変地異で刑務所が囚人の避難や護送をできなくなった際、24時間に限り解放を認めている。解放を判断するのは典獄(刑務所長)だ。遠方の家族を助けに行き、24時間以内に帰れなかった者もいたが、交番や他の刑務所に出頭するなど、逃亡者はゼロであったと当時の典獄・椎名通蔵が確認している。

 遵法精神など吹き飛びそうな混乱の中、1000人近い囚人全員が刑務所に戻ったとは驚くべき話だ。その割には世に知られていない。いろいろ不思議に思い、著者の坂本敏夫氏に話を聞いた。

 坂本氏は元刑務官。各地の刑務所を渡り歩く中でこの話を知り、30年掛けて調べたという。本にしたきっかけは「東日本大震災」。地震と津波で町が壊滅状態になっても大きな暴動も起きず、支援物資を前に礼儀正しく列を作り、助け合う日本人の姿を見た。「90年前の日本も同じ。緊急時でも規律を守り、助け合えるのは日本人の魂というべきもの。書き残さなくてはいけないと思った」と語った。

 実は東日本大震災当時も、似た話はあったそうだ。「津波で水没した宮城県石巻市の拘置所では、未決囚を屋上に逃がした。何の問題も起きなかった」「宮城や岩手では、囚人たちが“自分たちの食事を1日1回にして、残り2回分を被災地への支援物資にしてくれ”と申し出た刑務所もあった」と明かした。

 関東大震災では、横浜刑務所の囚人の多くが、壊れた港で支援物資を荷揚げする危険な作業に従事した。「普段寂しい思いをしている分、塀の中の人間の方が優しいことだってある」坂本氏は性善説の人。多くの受刑者と接してきた刑務官の言葉だけに重みがあった。

 ちなみに“正史”は横浜刑務所の囚人解放を、かなり違う形で伝えている。公式記録は未帰還囚240人。椎名が確認した“逃亡者ゼロ”は反映されず、彼は“帝都一帯を混乱に陥れた典獄”とされている。なぜか?不思議なことに、横浜刑務所には関東大震災当時の記録が残っていない。坂本氏は「そこに“朝鮮人狩り”をめぐる政治判断があった」とみる。

 混乱の中「横浜刑務所を脱走した朝鮮人が暴れている」とのデマが流れた。坂本氏は「当時の横浜刑務所に、朝鮮人の囚人はいなかったという」と話す。坂本氏の調べでは「当時、犯罪を犯した朝鮮人は平壌の刑務所などに送っていた」という。ちなみに記者は、横浜刑務所に問い合わせてみたが、やはり「当時の記録はなく調べられない」との答えだった。

 坂本氏は「政府は、国際問題に発展した朝鮮人虐殺の責任転嫁の材料として囚人解放に目をつけた」と考えている。解放がデマを呼び、虐殺に繋がったという論法だ。そうなると逃走者ゼロ、復旧作業に身を捧げる囚人の姿などの“美談”は邪魔になる。そして闇に葬られたというのが、坂本氏の見立てだ。

 90年前の震災の話だが、そこには今の我々に受け継がれる日本人の心を見ることができる。大災害でも、規律と思いやりを忘れない姿を誇らしく思う一方で、不確かな噂に振り回される一面があることを覚えておかなくてはならないと感じた。

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2016年4月10日のニュース