江夏を追い津田を思い…大野豊氏 最初で最後の胴上げ投手

[ 2020年5月13日 06:45 ]

我が野球人生のクライマックス

自身初のリーグ優勝を決めて達川と抱き合って喜ぶ大野
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 胴上げ投手に全ての思いが凝縮した。スポニチの野球評論家陣が忘れ得ぬ試合やワンシーンを自ら振り返る「我が野球人生のクライマックス」。大野豊氏(64)にとって、1991年10月13日、自身最初で最後の胴上げ投手となった地元・広島での阪神戦は忘れえぬ試合だった。病に倒れた津田恒実氏(故人)への思い、伝説の左腕・江夏豊氏(71)の教え…全てが凝縮されたマウンドだった。(構成・秋村 誠人)

 喜びをどう表現しようか。そう考えるうちに自然と左腕を突き上げていた。何とも言えない歓喜の瞬間。その光景を、大野は今も鮮明に覚えている。

 「最後の9回は3者連続三振でね。気がついたら、もう目の前に達川がいた。初めてでしたからね、胴上げ投手は。チームとしての達成感もあったし、地元のファンの前でとにかくうれしかった」。駆け寄る捕手の達川光男と抱き合い、掲げた左腕。強く握りしめた拳が印象的だった。

 リーグ優勝に王手をかけて迎えた阪神とのダブルヘッダーの2試合目。出番は1―0の8回だった。そこまで先発・佐々岡真司(現広島監督)が無失点の好投。無死一塁の場面でマウンドに来た山本浩二監督が一声掛けて、ベンチへ戻ろうとしたときに「ササ(佐々岡)は大丈夫だろ?」と聞くと、達川が「駄目です」と答えたという。それでマウンドへ引き返して投手交代。ブルペンにいた大野に登板指令が来た。

 無死一塁から代打のトーマス・オマリーを三振。続く和田豊を遊ゴロ併殺に斬った。そして9回は3者連続三振。優勝を決めたマウンドで、さまざまな思いが交錯していった。

 「いずれそのマウンドにいたい」。伝説の左腕・江夏豊に憧れ、その姿を見てそう思った。出雲信用組合時代は、江夏と同じ背番号「28」をつけたほどだ。その憧れの人が、プロ2年目の78年に広島へ移籍してきた。同じ左腕で、名前も「豊」。目をかけられ、時に厳しく教えを受けた。「見て、感じて、覚えろだった。特に言われたのはキャッチボールの大切さ」と振り返る。当時の抑えは7、8回から登板して2イニング、3イニングを投げきるのが普通で「今とは価値観が違う。江夏さんの偉大さを教わり、この人に追いつこうと思ったけど、できなかった。それで自分の投球を確立しようと思った」。150キロ近い速球と切れのある多彩な変化球を駆使する投球の原点となった。

 江夏が日本ハムへ移籍するまで3年間。間近で見て、教わった財産をその後の野球人生で生かしてきた。もちろん91年の胴上げ投手のマウンドでも。そして、91年はどうしても優勝したい理由がチーム全体にあった。

 実はこの年、山本監督には大野と津田恒実のダブルストッパー構想があった。「炎のストッパー」と呼ばれた快速右腕。実際にシーズンはその構想でスタートした。ところが、4月14日の巨人戦で津田はリリーフで大乱調。後を受けた大野も打たれて逆転負けした。津田は体調不良で戦列離脱。原因は脳腫瘍だった。優勝争いの夏場、山本監督は「津田のために優勝しよう。優勝旅行へ連れていこう」とハッパを掛けた。4月以降は一人で抑えを担ってきた大野。この年、自己最多の26セーブで優勝に貢献した。しかし、津田はマウンドに戻ることなく、その2年後に32歳の若さでこの世を去った。

 「躍動感と闘争心が素晴らしい投手だった。彼とのリレーはあの巨人戦が最後となってしまったけど、あの年は目に見えない力というか、予想以上に頑張れた年だった」

 いろんな思いの詰まった胴上げ投手。生涯忘れることはない。(敬称略)

 ≪防御率135・00 屈辱からのスタート≫胴上げ投手へのスタートは、屈辱のマウンドだった。1年目の1977年9月4日。地元・広島市民球場での阪神戦だった。

 「敗戦処理での登板だったけど、もう散々だった。プロの厳しさを感じさせられた試合です」。軟式野球出身のテスト生に巡ってきたプロ初登板。タイムリーに満塁弾を浴びた後、2四球を出して降板した。アウトは同学年の掛布雅之を打ち取った遊飛だけ。1/3回を5失点だった。

 「田舎(出雲市)の後援会も来てたけど、試合後は誰にも会いたくなくて泣きながら太田川沿いを歩いて(寮まで)帰った」。ただ、その失敗が成長させてくれた。体力、技術、メンタルを見つめ直し、翌年には江夏との出会いもあった。

 「自分の弱さを受け入れ、失敗を乗り越えて成長できた」。この年の登板はその1試合だけ。プロ1年目の防御率135.00が後の胴上げ投手、2度の最優秀防御率(88、97年)につながった。

 ◆大野 豊(おおの・ゆたか)1955年(昭30)8月30日生まれ、島根県出雲市出身の64歳。出雲商で快速左腕として注目されたが、軟式野球の出雲信用組合に就職。77年にテスト生として広島に入団。81年に抑えに抜てきされ、84年に先発へ転向。88年に防御率1.70で最優秀防御率、沢村賞。91年に再び抑えとしてリーグ優勝に貢献。プロ22年間で通算707試合、148勝100敗138セーブ、防御率2.90。98年限りで現役引退し、広島、北京五輪日本代表の投手コーチを務めた。

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