【タテジマへの道】陽川尚将編<下>「巨人入団拒否」正しかったと証明する

[ 2020年5月12日 15:00 ]

09年、選抜では1回戦で倉敷工に惜敗…陽川(左)は横井一裕監督に背中を押され涙とともに「聖地」から去った

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けてスポニチ虎報では、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。第15回は13年ドラフトで3位指名された陽川尚将編。今日は(下)を配信する。 

 土は持ち帰らなかった。3年春にセンバツに出場した尚将は、開会式直後の第1試合で、倉敷工(岡山)相手に壮絶な試合を繰り広げた。10―9の延長12回に2点を奪われサヨナラ負けも「夏にまた戻ればいい」と甲子園に別れを告げた。しかし、再び足を踏み入れることはなかった。夏の大阪大会は準々決勝で敗退。「悔しかったけど、やっと終わったなと。少しホッとした」。憧れだったプロの世界を夢見て「プロ志望届」を提出し運命のドラフトを待った。

 名前は確かに呼ばれた。だが「陽川尚将」の前に「巨人育成ドラフト3位」という“肩書”がついていた。育成枠で指名された場合は東農大への進学が基本線としていた。ドラフト後に再考し、横井一裕監督(38)らと話し合って結論を出した。

 「高校時代から東農大の福田前監督がよく足を運んでくれていたので」

 高校通算36本塁打のスラッガーは、神宮経由でのプロ入りに目標を切り替えた。東農大は東都リーグ所属とはいえ、当時は2部。きらびやかにスポットライトが当たる場所では決してない。野球開催時以外はゴルフの練習場になる神宮第二がメーン球場で、ここから絶対にはい上がっていくと心に誓った。

 1年春の日大戦1回戦、走者一塁の場面で代打起用され、きっちりと三塁線へ犠打を決めた。そのまま指名打者に入り、2打席目に左翼へ弾丸ライナーで初本塁打を突き刺した。「入ったときはびっくりした」。この一発で「居場所」を確保した。翌日の同2回戦から「指名打者」として先発機会を得て、11試合で36打数9安打、打率・250。初のリーグ戦としては及第点を残した。

 同年秋から2年秋まで二塁を守り3年春からは三塁へ転向した。大学4年間で計93試合に出場。4年春に40打数18安打、打率・450で首位打者に輝くなど通算打率は・318。二部のため参考記録ながら、リーグ史上最多となる109安打を積み上げ「東都屈指の強打の三塁手」の名をほしいままにした。

 「僕は野手の間を抜いて、率を残すタイプの打者だと思っている。右方向へ大きい打球を打てるようになりたい」と話すが2部ながら通算23本塁打を記録した。東都1部のリーグ記録は井口(青学大、現ロッテ)の通算24本塁打。単純比較はできないが、プロでもアーチを打てる打者になる可能性は十分に秘めている。

 ケガにも強く今秋の国士舘大2回戦では、三遊間の打球に飛び込んだ際に左肩を脱臼したものの試合に出続け、直後の打席で何と本塁打を放った。福地監督も「痛みに耐える強さを持っている」と目を丸くする。

 「ファンも多くて、大歓声の中で試合ができる」。巨人の育成指名での入団拒否から4年。「しっかりやってきました」。自身の選択が正しかったことを証明するときが来た。(2013年11月6日付掲載 おわり)


 ◆陽川 尚将(ようかわ なおまさ)1991年(平3)7月17日生まれ、大阪府出身の22歳。金光大阪では1年夏と3年春に甲子園出場。東農大に進学後、1年秋には東都2部でリーグ3位の打率・333と頭角を現し4年春には打率・450で首位打者に輝いた。1メートル79、86キロ。右投げ右打ち。

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