【内田雅也の猛虎監督列伝(22)~第22代 安藤統男】「切り札」5年契約も3年で失意の退団

[ 2020年5月12日 08:00 ]

82年6月3日、巨人戦で江川から同点ソロを放った掛布(左)を笑顔で迎える安藤監督。この年、掛布は本塁打と打点の2冠に輝いた
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 若手を率い、米教育リーグに参加していた2軍監督・安藤統男はフロリダ州セントピーターズバーグのホテルで球団社長・小津正次郎からの国際電話を受けた。中西太退団会見の翌日、1981(昭和56)年10月14日深夜(日本時間15日)、監督就任要請だった。

 21日の帰国後、受諾し、23日の就任会見で「正直言ってプレッシャーを感じている」と言いながら「20年間阪神にお世話になった。ご恩に報いるのは優勝」と宣言した。

 主将を務めた慶大から62年入団。球団史上4人目の慶大出身者だった。73年限りで引退し、直後から1、2軍指導者を歴任していた。早くから幹部候補と目された「切り札」だった。小津は「長期にわたり優勝態勢を築く」と異例の5年契約を結んだ。同年まで5年間で監督5人という短命の反省から腰をすえた。

 「守りの野球」を掲げた82年の安芸キャンプ。掛布雅之が泥にまみれた。安藤は掛布に「27個目のアウトを取る時にグラウンドにいないとレギュラーじゃない」と諭した。掛布は「安藤さんがプロ野球選手としての土台を作ってくれた」と感謝する=『巨人―阪神論』(角川書店)=。

 開幕大洋戦(横浜)は9回表まで2―0。小林繁は完封目前の2死一、二塁から連打で同点。なお一、三塁。敬遠策の2球目、ウエストボールがとんでもない高い球となり、暴投でサヨナラ負けを喫した。尾を引くように4月は5勝12敗2分けの最下位と出遅れた。

 5月に入り、安藤は動いた。先発の山本和行を呼んで意図を話し、救援に転向させた。弱体投手陣を継投でやりくりする采配に、山際淳司は『プロ野球グラフィティ 阪神タイガース』(新潮文庫)で<戦力に応じたフレキシビリティー。それが安藤野球>と記した。

 6月から7月にかけ破竹の11連勝の後に8連敗を喫した。夏休み最後の8月31日、大洋戦(横浜)では判定に怒ったコーチの島野育夫、柴田猛が審判団に殴る蹴るの暴行を加える事件があった。2人には無期限出場停止の処分が下された。

 それでも試合内容は充実していた。山本和は40セーブポイントの新記録でタイトルを獲得。掛布は本塁打、打点の2冠。岡田彰布は初めて3割をマークした。優勝した中日に4・5ゲーム差の3位は立派だった。

 マウイでキャンプを張った2年目の83年。開幕から打線が振るわず、6月末まで62試合で10度も零敗があった。真弓明信の首位打者、藤田平の2000安打と話題はあったが、30歳のエース・小林繁は「体力、気力の限界」と現役引退を表明。最終成績は62勝63敗5分けと負け越し、4位だった。一部新聞では「安藤辞任」「小津退陣」との報道が乱れとんだ。

 小津が「腹をくくっている」と覚悟し、安藤、球団代表・岡崎義人と臨んだ10月26日、電鉄本社でのシーズン終了報告。例年30分程度だが、オーナー(本社会長)・田中隆造、同代行(同社長)・久万俊二郎との会談は3時間に及んだ。

 <席上、本社側が安藤監督に「小津社長には辞めてもらうことになった。君は来季もやってほしい」と「小津辞任、安藤留任」を迫った>と玉置通夫『これがタイガース』(三省堂出版)にある。前年の暴行事件など「不始末の責任」という。安藤は唐突な本社の提案に抵抗し、田中は「厳しさを打ち出して3人で頑張れ」となった。

 田中は会見に同席しなかった。コメントも秘書を通じてのもので<「頑張ると言うからやってもらう」とのニュアンス>と本紙編集委員・沢武三が書いている。会見は<裁かれた被告人自ら判決文を代読したようなもの>。安藤は険しい表情で前方をにらんでいた。

 勝負の3年目となった84年は一進一退。8月の長期ロードで4勝13敗と大きく負け越し、Aクラス入りも断たれた。一部には安藤辞任を見越した報道が目立ち始めた。

 小津は先手を打った。シーズン中の9月14日、田中、久万同席の球団役員会を開き、「来季も安藤監督でいくという了承を取った」。そして「混乱を防止するため」と留任を発表した。

 シーズン最後の2試合は中日戦(ナゴヤ、甲子園)だったのは運命の皮肉か。掛布と中日・宇野勝の本塁打は同じ37本で並んでいた。宇野にタイトルをと中日監督・山内一弘が安藤に「掛布はどんな場面でも歩かせる」と協力を求めてきた。不本意ながら敬遠合戦に同意した。10月3日、5日で宇野も掛布も10打席連続四球と従来の8を更新する新記録となった。非難が巻き起こり、コミッショナー・下田武三も「ファンを無視した八百長行為」と問題視した。

 安藤は全日程終了の5日に口頭で、納会の8日に文書で辞意を伝えた。小津も慰留を断念し、12日に辞任表明となった。

 安藤は「敗軍の将は黙って消えるのみ」。本紙・石原英敏は<留任発表の一方で安藤に代わる監督人選が行われた>と記した。本社が水面下で西本幸雄(当時本紙評論家)擁立へ、非公式な接触を行っていた。<安藤監督はその事実に阪神の構造的欠陥を見、失望したのだ>と無念の心情を代弁した。=敬称略=(編集委員)

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