【球春ヒストリー(8)】1995年・市岡 エース井上「考える力」でつかんだ夢舞台

[ 2020年3月27日 08:00 ]

95年センバツ、199球の熱投も日南学園の前に敗れ去った市岡・井上(右から2人目)
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 強豪私学がひしめく大阪において公立校が甲子園に出るのは至難のわざ。1995年の第67回大会に出場した市岡が春夏通じて最後となっている。当時のエースだった井上雅文氏(42)は1回戦・日南学園戦で延長10回、199球完投の勝利を呼べなかった。

 「試合の印象は正直、あまりないんです。大会前のケガもあり、3年間で一番状態が悪い中での登板が甲子園でした」

 2月上旬に左ふくらはぎ肉離れと腱の脱臼を併発し、テーピングで固定しての投球。9回まで4点でしのぎ延長に入ったが、10回1死満塁から4失点し力尽きた。打っては2回に一時同点のソロ本塁打を放ったが、1点を追う8回無死一、二塁で送りバント失敗し同点機を逃した。

 「投球を挽回しようと、余計に空回りしていたんだと思います」

 白地に3本線が入った帽子は、夏の第1回大会から予選皆勤を続け24年の第1回選抜にも出場したレジェンド校の象徴。春夏合わせて21度の甲子園出場を誇るが、当時も技術が傑出していたわけではないという。

 「打つのがすごい、投げるのがすごいではなく、チームとして、考える力があったと思います。技術では私学にかないませんから」

 OBでもある河合孝監督(当時)の口癖は「自分たちで考えろ。臨機応変にやれ」。試合中も相手バッテリーの配球や投手の癖、相手校の攻撃パターンなどを選手間で確認。その結果、前年秋は大阪大会準優勝、近畿大会8強で8年ぶりの選抜切符をつかんだ。

 「秋の決勝でPLに(4―14で)大敗し、より野球を突き詰めるようにはなりました」

 チーム随一の守備力を誇った遊撃・伊藤昌弘で併殺を奪う確率を高めようと、速いゴロを打たせることにこだわった。「あえて真ん中付近にスライダーを投げていました」。最速135キロでも激戦区を勝ち上がれた裏には緻密な計算もあった。

 他部と共有するグラウンドは週2回しか使えず、定時制があったため全体練習も午後5時30分まで。練習、試合ともレギュラー組が最優先だったが、控えとの間に溝はなかったという。「彼らの分までという思いは常にありました。練習でも手を抜くことは許されなかった」。春の府大会で優勝し、夏はPL学園に敗れての準優勝。全ての府大会で決勝進出したように大阪の高校球界をリードした一年だった。

 ◆井上 雅文(いのうえ・まさふみ)1977年(昭52)12月17日生まれ、大阪府出身の42歳。市岡では1年夏から背番号10でベンチ入りし2年秋からエース。甲子園には3年春に出場。立命大では外野手としてリーグ戦出場を果たした。現在は浪速高校(大阪)で社会科教諭を務める。

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