【球春ヒストリー(7)】1987年・帝京 低い下馬評から…芝草、運命変えた快投

[ 2020年3月26日 08:30 ]

87年センバツ、金沢戦でSFFも駆使し、力投した帝京・芝草
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 強い風が上空を舞う寒い日だった。1987年の第59回大会の開会式。当日の第2試合で金沢と戦うことが決まっていた帝京の当時の背番号1、芝草宇宙氏(50)はズボンの後ろポケットにずっと右手を忍ばせていたという。「とにかく寒い日で手が冷えないようにと注意を払いました」。全ての意識は試合に向けられていた。

 初回に2点、7回にも1点の援護をもらった。甲子園は初登板だったが決め球のフォークに加え、当時はやりだったスプリット・フィンガー・ファストボール(SFF)も駆使して力投。公式戦初完封がかかった9回は3安打にボーク、2死球が絡み2点を失ったが、逃げ切った。

 大会前、プロからの注目は皆無に等しく、名前の「宇宙(ひろし)」だけが先行していた。アポロ11号が月面着陸に初成功した1969年生まれ。初戦突破翌日の3月27日付の東京本紙1面には大きな活字が躍った。『宇宙魔球発射』――。「当時のスポニチ1面は今も覚えています。うれしかったなあ」。執筆した記者のフルネームも覚えていた。

 チームは前年秋の東京都大会と明治神宮大会を打力で制したが、優勝を決めたマウンドはいずれも同級生の平山勝に譲っていた。そもそも大会も「西高東低」と言われ下馬評は低かった。「投手力は出場32校中、31番目の評価。投手力は相当弱いと言われていましたから」。秋に目立った活躍がなかった右腕にとって、選抜は「仲間に連れてきてもらった」場所。「何としても甲子園で借りを返したい」強い思いが快進撃につながった。

 2回戦は優勝候補の一角だった京都西(現京都外大西)に被安打4、10奪三振で公式戦初完封。準々決勝は優勝するPL学園に延長11回サヨナラ負け。2死一、三塁からどん詰まりの右前打での決着だった。「インコースを攻めた結果。最後まで自分のスタイルを貫くことができました」と後悔は一切ない。

 87年選抜は芝草氏にとって「運命を変えた春」になった。ドラフト候補となりプロへの道も開けた。中止に追い込まれた今春。出場予定だった選手に思いをはせた。「甲子園で人生が変わる。俺も人生が変わったから。春の32校を夏に挑戦させてあげたい。ビッグトーナメントなら盛り上がるでしょ。夏、われわれもそこに加わることができれば」。4月からは帝京長岡の監督として聖地を目指す。

 ◆芝草 宇宙(しばくさ・ひろし)1969年(昭44)8月18日生まれ、埼玉県所沢市出身の50歳。帝京では2年春、3年春夏に甲子園出場。3年夏の2回戦・東北戦で無安打無得点試合を達成した。87年ドラフト6位で日本ハム入団。ソフトバンクを経て台湾・興農でもプレー。NPB通算46勝56敗17セーブ、防御率4.24。現役引退後は日本ハムで投手コーチ、スカウトなどを歴任。

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