栗山監督 就任1年目V!ダル抜けても対話と気配りで頂点に

[ 2012年10月3日 06:00 ]

リーグ優勝を決め胴上げされる日本ハム・栗山監督

 舞った、心で泣いた。優勝へのマジックナンバーを1としていた日本ハムは2日、2位西武がロッテに敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた。就任1年目の栗山英樹監督(51)が、異例の無料開放で1万人を超えるファンとともに待機していた札幌ドームで宙に11度舞い、北の大地に大輪を咲かせた。絶対エースのダルビッシュが抜けたことで戦前の下馬評は低かったが、若手の潜在能力を引き出した新人監督の手腕で見事に覆した。

 夢が正夢になった。苦しみ、耐えてたどりついた歓喜の時。大型ビジョンが西武の敗戦を映し出した。無料開放された札幌ドームの1万5608人の歓声を浴び、栗山監督は選手の輪の中へ。背番号80が計11度も北の大地で高々と舞った。

 「北海道が1番になりました!開幕前、選手に家族の幸せのために戦ってくれとお願いした。ファンも家族だと思ってる。みんなが家族のようにつながった。人の心がここまで導いてくれた」

 頬を伝う涙はない。でも、選手たちを見つめる目は潤み続けた。監督の苦しみから解放され、心で安どの涙を流した。ユニホームを脱いで21年。テスト入団で現役時代に輝かしい実績はなく、コーチ経験もない。そんな栗山監督が就任1年目に優勝のゴールへ飛び込んだ。異色の新人監督が球史に刻んだペナント制覇だった。

 負けることの怖さに押しつぶされそうな半年間だった。「経験がないから怖さはずっと消えなかった」。21年間の取材者として蓄えた知識と理論はあっても、未体験のペナントレースは想像以上に厳しかった。胃薬を手放せない毎日。それに耐え抜けたのは、偉大な野球人のおかげだった。

 開幕直前の3月末。栗山監督はオープン戦の移動日に、長嶋茂雄氏(巨人終身名誉監督)を都内の自宅に訪ねた。監督就任のあいさつ。30分ほどの予定が、1時間以上にもわたって監督として必要なものを説かれた。数多くの教訓、そして心の支えを得た。「あの長嶋さんでさえも監督というのは大変な仕事だった。怖いのは自分だけじゃないと安心できた」。帽子のつばの裏の「3」はそのとき書いてもらった。試合で何度も「3」を見て助けられて前へ進んだ。

 背番号80は名将・三原脩監督にあやかった。5球団を率いた名将が唯一Aクラスを逃したヤクルト時代の番号だ。「三原さんがやり残したことを引き継ぎたい」。魔術師と呼ばれた先入観を持たない三原野球に学び、スタートは斎藤の開幕投手起用と2番・稲葉で勢いをつけた。中田をどんな不振でも全試合4番で使い、吉川を「駄目ならユニホームを脱がす」と言って覚醒させた。一方でパ・リーグの厳しい移動を考慮。首都圏遠征のときなどは必ず選手を自宅へ帰した。「疲れを取るには家族の元が一番いいからね」。対話を重ねて選手を知り、グラウンド外で常に気配りを忘れず、グラウンド内ではあえて負け試合をつくらず、全てやり尽くす野球でシーズンを駆け抜けた。

 ただ、順風満帆ではなかった。新人監督の最大の試練は4月17日の西武戦(西武ドーム)。5回に絶不調の中村と勝負して勝ち越し打を打たれ、思考が停止したのだ。最善の策と信じた中村勝負が全く裏目。ショックで次の指示が遅れ、追加点を奪われて負けた。楽天・星野監督から「監督が打たれることがある」と聞いていた栗山監督は「まさにそれなんだ、と。生まれて初めて考えようとしても考えられなかった」という。監督のせいで負けたと思うと、悔しくて眠れなかった。

 そんな眠れぬ夜を何度も過ごした。その度に帽子の「3」に勇気づけられ、背番号80に背中を押された。昨年12月。都内の寺にある三原脩氏の墓前で、栗山監督はこう誓った。「シーズンが終わったとき“おまえ、頑張ったな”と言ってもらえるようにやります」。日本ハムの初代球団社長でもある名将は天国からこう声を掛けたはずだ。

 「よう頑張ったな、栗山監督」――。

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2012年10月3日のニュース