語りつなげる“てんでんこ”の教え

[ 2023年7月28日 08:00 ]

製氷貯水施設には明治、昭和、平成の地震による津波の高さが(建物右側の黄色い目印)
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 【笠原然朗の舌先三寸】宿泊は岩手県田野畑村のホテル羅賀荘。羅賀漁港前に建つ10階建の建物で、青空に白色が映える。東日本大震災による津波は3階部分まで達したという。

 記録文学の世界で金字塔を打ち立てた作家・吉村昭と、夫人で芥川賞作家の津村節子が定宿にしていたことでも知られる。

 海を一望にする大浴場が自慢だ。夕食のグレードが少し落ちる“定食プラン”で1泊2食9000円。十分、満足がいく内容だった。

 今回の三陸旅は60歳の定年を前に取得した休暇を利用してのもの。いくつかあった目的の1つが宮古市田老を訪れることだった。

 2011年の東日本大震災に先立つ1896年(明29)6月15日と1933年(昭8)3月3日、2度に渡って三陸沿岸を大地震による津波が襲った。

 特に被害が大きかったのは田老地区。明治の津波では死者・行方不明者が住民の約8割にも及ぶ1859人、昭和は約3割の911人。そのため同地のことは「津波田老」と呼ばれるようになった。

 田老で宮古市観光文化交流協会が企画しているガイドツアーを申し込んだ。客は私1人。担当してくれた小幡実さん(67)は現在、5人(男性3人、女性2人)いるガイドの中で唯一、田老で津波の被害に遭った被災者だった。ガイド歴は10年だという。

 まず小幡さんが新田老駅から運転する車で案内してくれたのは第一、第二、第三防潮堤の交点。田老はこの3つの防潮堤が住民の居住区を囲むようにX字状に2433メートル延びていた。長大な壁は、「万里の長城」と呼ばれることもあった。

 中でも堅牢だったのが1935年から57年度まで22年間の工事期間を経て造られた高さ10メートルの第一防潮堤だ。

 「東日本大震災の津波は3回、田老を襲いました。第1波は地震発生から37分後。町内放送で“3メートルの津波”とあったので“そのくらいなら”と安心して家にいた人もいました。私ですか?いままでにない揺れだったのでおっかなくなってすぐに三王岩の車で避難しました」

 町は停電。テレビも携帯も通じなくなった。「3メートル」の後は、町内放送も途切れた。防潮堤が視界を遮り、海の様子も見えない。

 そんな状態で襲った第2波、第3波。海は盛り上がり、平均16メートルの高さで“万里の長城”を越えた。

 「それから波が引くまで4分。とても静かな時間でした。その4分間ですべて破壊されました」

 少し高台にある田老第一中学校の校舎1階まで津波が上がった。校庭に避難していた生徒たちは「てんでんこ、めいめいっこ逃げて助かりました。てんでんは“てんでばらばらに”、めいめいっこは“めいめいで”という意味」。自己判断で、ということだ。

 小幡さんは財布や通帳だけ持って高台でぼんやりと海を見ていた。

 「その時、ドーン!と大砲のような音がしたんです」。

 津波が海面から突き出した岩々にぶつかる音。その轟音で我に返って見下ろすと、町が津波にのみ込まれていくのが見えた。目の前で起きていることがよく理解できなかった。ただ「これで終わった」と小幡さんは思った。何が終わったか?これまで築き上げてきたもの、人生、思い出…胸に去来したものは?

 地震の揺れで、避難した人も多かったが「3メートル」の放送で家に戻った人もいたという。

 「おじいさんに“寒いからジャンパーとってきてくれ”った頼まれたおばあさんも津波にのまれました。ご先祖の位牌やお金を取りに戻った人も亡くなりました。防潮堤の上で見物していた人もいました。地震からたった45分間の出来事です」

 現在、震災遺構となっているたろう観光ホテル近くで小幡さんは、50人ほどが宿泊できる民宿を経営していた。1924年(大13)生まれで80歳で亡くなった父・清さんが創業。小幡さんは横浜市内の大学を卒業して仕事に就いた後、田老に戻って後を継いだ。

 徴収された清さんは敗戦後の4年間、ロシア・シベリアで抑留生活を送った。

 「ハバロフスクで歌手の三波春夫さんと3カ月間、一緒だったそうです。その影響か父も浪曲が好きでした」

 「民宿おばた」で清さんはお客さんの前に得意の一節をうなることもしばしば。フォークソングを歌うのが好きな小幡さんもそれに加わって歌った。父子そろってサービス精神旺盛で宴会好き。

 「地元の人から“おばた民宿の夜もふけて”って言われて有名だったんですよ」

 そんな名物宿も津波で跡形もなくなった。いま小幡さんは年金とガイドから得られる収入で暮らす。

 東日本大震災による津波で田老地区では死者・行方不明者は181人(うち行方不明41人)だった。明治、昭和の津波の時より格段に少ない。それは旧田老町が昭和津波で被害を被った教訓から長大な防波堤を造り、44カ所を避難場所に指定。さらに毎年3月3日には地区全体で防災訓練を行うなど永年に渡る「防災の町」としての取り組みにもよるのだろう。だが、逃げていれば助かったはずの貴重な命は多数奪われた。判断ミスが生死を分けた。

 小幡さんは「津波が来たとき、もし第一防潮堤がなければ海の様子が見えた。それを見て避難できた人もいたはず。ですが防潮堤が被害を少なくするための役割を果たしたというのが田老の人の結論です」

 震災後、新たに田老に高さ14・7メートルの防潮堤が造られた。住民たちは高台に新たな住居を設けた。約1500人が田老を離れた。

 今回の旅では、三陸沿岸の各地で、海の景色を遮る高過ぎる防潮堤を見た。

 小幡さんはジレンマを話す。

 「海を見渡せるという開放感はかけがいのないものです。防潮堤がない町造りが理想だと思います」

 一方で「防潮堤を築き、防災のモデル地区として残っていくのが田老の宿命なんです」

 いつ南海トラフ地震が起きてもおかしくないと言われて何年も経つ。その時、私たちはどうするべきか?津波の来襲を想定して、まずは何をおいても命を守るために“てんでんこ”に高い所に避難する。絶対に戻らない。そして「人工の建造物の強度を信じるな」ということに尽きるだろう。

 人の想定したことなど軽々と越えるのが津波なのだ。
  

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