山梨学院、信玄も果たせなかった県勢初天下統一 吉田監督は史上4人目複数校で甲子園V

[ 2023年4月2日 05:05 ]

第95回選抜高校野球大会最終日・決勝   山梨学院7-3報徳学園 ( 2023年4月1日    甲子園 )

<山梨学院・報徳>センバツ初優勝を決めた山梨学院ナイン(撮影・平嶋 理子)
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 初の全国制覇だ!山梨学院が県勢として春夏通じ初めて進んだ決勝で報徳学園(兵庫)を7―3で撃破。2点を追う5回に5連打を含む6安打を集中して一挙7点を奪った。清峰(長崎)を率いて09年大会を制した吉田洸二監督(53)は史上4人目となる複数校での甲子園大会制覇を達成。新型コロナウイルス感染対策の緩和で観客数の上限もなくなった聖地で見事な集中打を披露し、3万人の観衆の前で歓喜の瞬間を迎えた。

 甲斐国に生まれた武将・武田信玄の軍旗にはこう記されていた。「風林火山」。信玄ですら果たせなかった天下統一を、同じ名峰・富士を望みながら鍛錬を続けた若武者たちが成し遂げた。征夷大将軍…、いや、優勝監督となった吉田洸二監督は「力を出し切れたら良いと思って臨んだ大会で最後に力を出してくれた」と喜んだ。

 山梨に初めて甲子園の優勝旗を持ち帰った。指揮官が「まさに神風が吹いた。“優勝しろよ”と甲子園の神様が言っていた」と振り返ったのは2点を追う5回だ。“風”のように素早く進軍し、“火”のごとく激しく攻める。1死一塁から5連打で5点を奪い、4回まで1安打に抑えられていた相手先発・間木歩(2年)をKOした。なお2死二塁で打席は佐仲大輝(3年)。直球を捉えると、今大会のチーム1号がダメ押しの2ランとなって左翼席に消えた。最強の騎馬隊を編成して勝機を逃さなかった偉大な武将のように、見事な集中打を見せた。

 ビハインドの展開でも吉田監督は“林”のように心を落ち着けて力投するエースの林謙吾(3年)をナインが援護すると信じ、“山”のようにどっしりと構えた。それができたのは準備のたまもの。前日は睡眠時間を削ってプロ注目の相手捕手・堀柊那(3年)の配球を研究。「なんとなく配球の癖が分かった」と明かす。53歳の知将の努力は5回の猛攻につながり「選手も読み通りの打撃をしてくれた。見事だった」と目を細めた。

 清峰(長崎)を率いて選抜準優勝の06年と優勝した09年はWBCで侍ジャパンが優勝。今大会中に14年ぶりに世界一を奪還した際は「あやかりたい」と目を輝かせていた。昨夏に東北勢初の甲子園制覇を果たした仙台育英(宮城)に続き、今春も吹いた新風。「毎年、(山梨県民の)期待を裏切り続けていたので、少しは帳消しにしてくれるかな」と笑った。

 信玄が残した「信頼してこそ人は尽くしてくれる」との言葉通り、吉田監督が信じた選手たちが最高の結果を残した山梨学院。頂点に立っても、決して浮かれることはない。まだまだ、強くなる。(村井 樹)

 ◇吉田 洸二(よしだ・こうじ)1969年(昭44)5月6日生まれ、長崎県出身の53歳。山梨学院大を卒業後は母校の佐世保商(長崎)などで指導し、01年に清峰(同)の監督に就任。選抜では06年に準優勝、09年は今村猛(元広島)を擁して優勝。13年から山梨学院の監督となり、同校では今春が春夏通算10度目の出場。甲子園通算は15度の出場で21勝。

 ▽武田信玄 戦国時代の武将で、1521年に甲斐武田氏の嫡男として誕生。1541年に父・信虎から家督を継いだ。武術や学問に優れ、武人の心得を示した「風林火山」を旗印に用いて信濃(現長野県)や上野(現群馬県)、駿河(現静岡県)へと領土を広げ、宿敵である越後(現新潟)の上杉謙信との5回にわたる川中島の戦いは12年間に及んだ。天下統一への志半ばの1573年に病気により死去。生涯戦績は49勝3敗20分け。

 ≪学校は武田神社から5.7キロ≫甲府駅北口から車で約8分に位置する武田神社は1919年(大8)に武田氏館跡に創建。武田信玄らを祭り、勝運や開運に御利益があると言われる。その近くには信玄が死を隠していた3年間葬られていたとされる場所があり、現在は「武田信玄の墓」として整備。県指定の天然記念物「ヤツサブウメ」とともに観光スポットとして知られる。山梨学院はJR中央線の酒折駅が最寄り駅で、武田神社から約5.7キロの場所に位置する。

 ▼山梨学院・佐仲大輝(5回に今大会のチーム1号となるダメ押し2ラン)実感は湧かないけど、本当に甲子園が楽しくて良かった。チームを引っ張る活躍ができました。

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