【あの甲子園球児は今(3)浦和学院・坂元弥太郎】野球塾で80人指導 技術指導「全体の1割」の理由

[ 2022年8月7日 08:00 ]

Yataroスポーツベースで子供たちに野球を教える坂元弥太郎氏(撮影・川島 毅洋)
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 00年8月11日。浦和学院のエースだった坂元弥太郎は、八幡商(滋賀)との1回戦を前に、気持ちを落ち着かせていた。

 初回は四球、死球で走者を背負ったが、5番打者から空振り三振を奪い、無失点で切り抜けた。

 「相手の情報はほとんどなかったので、最初はわざとボール球を使ってバッターの出方を見ていました」

 持ち球は直球とスライダーの2種類だけだったが「同じ握りでも横に小さく曲げたり、縦に変化させたり、指、手首の使い方で投げ分けていた」と、数種類のスライダーが武器だった。

 4回に失策も絡んで1点を失ったが、打者の観察を済ませると、自らの投球に集中。毎回、三振を奪った。5回に勝ち越し2―1のまま終盤へ入った。7回2死からは7者連続で空振り三振を奪い、19奪三振。149球を投じ、1安打1失点で完投した。

 56年ぶりの大会タイ記録(当時)となる19奪三振。得意球のスライダーで13個を奪った。「全然、ピンと来なかった。三振は狙っていなかった。試合が終わって記録のことは知りましたけど、実感はなかったですね」と回想する。

 2回戦は柳川(福岡)が相手だった。「優勝候補でしたし、スライダーを狙ってくると思った」。勝負球には直球を選択したが、初回に4安打を浴び4失点を喫した。その後は立ち直ったが、チームは1―5で敗れた。

 大会後、高校日本代表で柳川の選手と再会すると、意外な事実を知った。「直球狙いで、スライダーが来たらごめんなさい、というミーティングをしていたみたいで…。自分の取り越し苦労だったことが分かって…」。2回以降はスライダー中心の配球に戻し、16三振を奪っただけに、苦い敗戦となった。

 プロではヤクルト、日本ハム、横浜、西武の4球団でプレーし、13年に現役を終えた。サラリーマンを経て、15年からは埼玉県内で「Yataro スポーツベース」という野球スクールの講師を務めている。主に小中学生を中心に、約80人の指導にあたる。モットーは「自力をつけること」。体づくりをメーンに、技術指導は「全体の1割程度」だという。

 「たとえば、コントロールが良くない子に、変化球を教えたところで何にもならないと思うんです。それよりも体を正しく使えるように強くしたり、体をうまく切り返せるようにすることの方が大事。メニューはいろいろと勉強して、考えて作りました。技術や戦術は高校に入ってからでも遅くはないんです。自力があれば競争できる。それをここで身につけてもらいたい」

 昨夏の甲子園。盛岡大付に進んだ教え子がホームランを打った。浦和学院に入学した2人の選手は、今春選抜で4強まで勝ち進んだ。「成長した姿を見るのは本当に楽しみ。やりがいのある仕事だと思います」。自力をつけた教え子の活躍が、自身の励みになっている。=敬称略=(川島 毅洋)

 ◇坂元 弥太郎(さかもと・やたろう)1982年(昭57)5月24日生まれ、広島県出身の40歳。浦和学院3年夏に甲子園出場。00年ドラフト4位でヤクルト入り。日本ハム、横浜、西武でプレーし、13年に現役引退。通算238試合に登板し19勝20敗、防御率4・37。1メートル82、86キロ。右投げ右打ち。

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