福留2000安打 夢の中でもバット振る男がついに

[ 2016年6月26日 05:30 ]

<広・神>6回2死二塁、福留は二塁内野安打で日米通算2000安打を達成し記念ボードを掲げる

セ・リーグ 阪神2-4広島

(6月25日 マツダ)
 太平洋を股に掛け、大きな節目にたどり着いた。阪神の福留孝介外野手(39)が25日の広島戦(マツダ)で史上6人目の日米通算2000安打を達成。中日で1175本、米国で498本、そしてこの日の第3打席、阪神で記念すべき327本目となる二塁内野安打を放った。もちろん、これがゴールではない。衰え知らずの天才打者は現役名球会員となっても、まだまだ猛虎打線をけん引していく。

 記念すべき一打が、名手・菊池のグラブをはじき飛ばした。この瞬間を待っていた虎党のみならず、広島ファンからも惜しみない拍手が巻き起こる。元同僚・新井から花束を受け取ると、福留は万感の思いを込めて満員の観衆に頭を下げた。

 「ホッとしているのが一番。飛んだ場所が菊池のところだったんで“あっ”と思ったけど、抜けてくれて良かった。ビジターだったけど、カープファンの皆さんもすごく声援してくださって、幸せな気分でした」

 残り2本で臨み、4回の右翼線二塁打で王手をかけた。球場全体に高まる期待感の中、6回2死一塁の第3打席。3ボールからの4球目を一、二塁間深くへ打ち返し、一気に大台に到達した。

 夢の中でさえバットを振ってきた。若い頃からのケタ違いの練習量が衰えぬ打力の源。その福留が「人生で一番振った」と話すのが、中日時代の01年、浜松での秋季キャンプだ。山田監督の新体制となり、自身も打撃改造に着手。フォームを固めるため、四六時中バットを握った。朝目覚めると、必ず手に「異変」が起こっていたという。

 「朝起きたら、手がバットのグリップの形をしていた。起きてまず何をするかといえば、顔を洗う前に指を伸ばすことからだった。それから朝飯を食べに行っていた」

 猛練習の成果で翌02年に初タイトルとなる首位打者を獲得。2000本の中で、最も印象に残っている1本はこの年のものだ。三冠を狙う巨人・松井との、し烈な首位打者争いの中で臨んだ9月末の敵地での直接対決3連戦。初体験の重圧に福留は苦しんでいた。初戦、2戦目はノーヒット。10打席連続無安打とバットが全く出なくなった。「相手が相手だったんで、体が固まって動かなかった」。そして迎えた9月29日の3戦目。3回無死一塁の第2打席に、値千金の1本が生まれた。

 「エンドランで一、二塁間を抜けたヒットだった。投手(上原)が誰かも覚えていない。ただ、あれで楽になった」

 当時「ベンチが打たせてくれたヒット」と振り返ったように、首脳陣がサインで強制的にバットを振らせてくれた安打。これで壁を破り、打率・343で見事にゴジラの三冠を阻止した。

 「タイトルの価値は、獲った者しかわからないというけど、獲ることで何かが開けることはある。あそこで獲れたのは自信になっている」

 変わらぬ練習量と年々深めていった自信をベースに、06年に2度目の首位打者、MVPを獲得。08年に米国挑戦すると、同年3月31日の開幕・ブルワーズ戦の初打席で中越え二塁打を放った。「初球を絶対に振ると決めて入って、打てた。向こうではあれかな」と振り返る1本を含め、世界最高の舞台でも500本近くを積み重ねた。

 この日のマツダスタジアムには妻・和枝さんと愛息・颯一(はやと)くん、愛娘・桜楓(はるか)ちゃんを招待した。米国から帰国し、阪神に入団当初はケガや不振で苦しんだ時期もあったが、心の支えになったのは家族の存在だった。

 「子供たちは“今日打ってね”と毎日声をかけてきてくれたし、こうやって家族の前で打てて、本当に良かった」

 福留にとって「2000」という数字は、大きな節目であると同時に通過点だ。個人的な数字はもういい。何よりも欲するのはやはりチームの優勝。ユニホームを着ている限り、不動の大目標に向かい、これからも安打を打ち続けていく。 (山添 晴治)

 ◆福留 孝介(ふくどめ・こうすけ)1977年(昭52)4月26日生まれ、鹿児島県出身の39歳。PL学園では甲子園に3度出場。社会人の日本生命を経て98年ドラフト1位で中日入団。外野手に転向した02年に初の首位打者。2度目の首位打者に輝いた06年はリーグMVP。07年オフにFAでカブスに移籍。13年に阪神で6年ぶりに日本球界に復帰。最高出塁率3度、ベストナイン4度、ゴールデングラブ賞5度受賞。1メートル82、92キロ。右投げ左打ち。

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