掲載見送った写真 元担当記者が明かす曙さんとジャイアント馬場さんの初対面「自分より大きい人に」

[ 2024年4月12日 04:45 ]

97年、全日本プロレスの日本武道館公演で入場前にジャイアント馬場(右)と握手をかわす横綱・曙
Photo By スポニチ

 大相撲で史上初の外国出身横綱となり、格闘家としても活動した元横綱・曙の曙太郎(あけぼの・たろう、旧名チャド・ローウェン)さんが4月上旬に心不全のため東京都内の病院で死去した。54歳だった。曙さんと親交があった元相撲担当記者が悼んだ。

 98年のクリスマスの夜だった。横綱だった曙さんは直前の九州場所を椎間板ヘルニアで休場。左足にしびれが出たため、クリスティーン麗子夫人の都内の実家で寝たきりになっていた。そこに突如、訪問したにもかかわらず、夫人は取材に応じ「引退はしない。復帰に向けて頑張る」という横綱のコメントを伝えてくれた。それでも、休場が長引くのは必至だったので、翌日の紙面で「場合によってはこのまま引退」と報じた。

 相撲担当2年目の記者が進退を厳しく書いても、ハワイ出身らしいおおらかさがあった曙さんは何事もなかったように接してくれた。そして00年名古屋場所で横綱としては最長ブランクとなる19場所ぶりの優勝を飾った。「やめて逃げ出さなくてよかった」という言葉は心に染みた。

 休場が続いていた時にはプロレス団体からの誘いがあり、曙さんもプロレスが好きだった。97年4月には全日本の日本武道館大会を観戦。記者の姿を見つけた曙さんに「ジャイアント馬場さんに会いたい」と求められ、バックヤードで対面させると「日本に来て自分より大きい人に会ったのは初めて」と喜んだ。プロレス界との接触が波紋を呼ぶことを危惧し、その時の写真は掲載を見送ったが、曙さんはその後、格闘家を経てプロレスラーとなった。15年には再び獲得した3冠ヘビー級王座の初防衛を果たし、馬場さんが生前に所有していたキャデラックをいただいた。これも何かの縁だろう。

 K―1では1勝しか挙げられなかったが、明るさを失わずに挑戦し続けたからこそプロレスラーとして再び花を咲かせた。さまざまな困難を乗り越えてきた曙さんの復活を信じていただけに、早すぎる訃報が残念でならない。(元相撲担当・佐藤博之)

続きを表示

この記事のフォト

「羽生結弦」特集記事

「テニス」特集記事

2024年4月12日のニュース