追悼連載~「コービー激動の41年」その89 100万年に1回のめぐり逢い

[ 2020年5月15日 08:30 ]

ブライアントとバネッサ夫人(AP)
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 コービー・ブライアントのバネッサ夫人はヘリコプターの墜落事故で愛する夫と次女ジアナさん(享年13)の2人を同時に失うという思いもしなかった悲劇と向かいあうことになった。

 旧姓はバネッサ・コーネヨ・ウルビエータ・レイン。1982年5月15日にロサンゼルス南部のハンティントンビーチで生まれた彼女は、両親、祖父母の関係でメキシコ、アイルランド、英国、ドイツといった国際色豊かな“民族”の流れを受け継いでいる。もっとも2001年4月18日、18歳の若さで、当時21歳のブライアントと結婚したとき、アフリカ系アメリカンとの結婚を希望していた父ジョーさんと母パメラさんは反対。「2人とも若すぎる」「婚約にいたった交際期間(6カ月)が短すぎる」といった理由も加わって結婚式には姿を見せず、長女(ナタリアさん)が2001年4月18日に生まれるまで断絶状態が続いたとされている。

 バネッサ夫人の義理のいとこはブライアントとの結婚に関して「100万年に1回あるかどうかのめぐり逢い」と語っているが、その運命的な出会いに加え、ブライアント同様に山あり谷ありの人生を歩んできた。

 実の父は生まれてすぐ離婚。米カリフォルニア州と国境を接しているメキシコのバハ・カリフォルニア州に移り住んでいった。発送係の仕事をこなしながら家計を支えた母のソフィー・ウルビエータさんは2005年に再婚。その後、再び離婚するがバネッサさんは高校生になったときに2人目の父の名前(LAINE)を自分の名前の最後に加えた。

 ではなぜ「100万年に1回のめぐり逢い」なのか?それにはブライアントの経歴が絡んでくる。ここまでの連載でブライアントはフィラデルフィアのローワー・メリオン高校で華々しい活躍をしてバスケットボールのトップ選手になったことを紹介した。しかしその高校時代、彼はバスケットボール以外のジャンルでも注目を集めていた。

 スカウトしたのはソニー・エンターテイメント社(本社・ニューヨーク)の音楽部門。ブライアントは「CHEIZAW」というラップグループのメンバーでもあり、バスケ以外の世界からも声がかかっていた。ただし同社が目をつけたのはこのグループの中でただ1人、NBA選手となったブライアントだけ。これは日本のアマチュア・バンドの発掘イベントで、優勝したグループから数人だけがプロとなってデビューするプロセスにもよく似ている。

 さてその結果、ドラフトでホーネッツに指名されながらロサンゼルスを本拠にしているレイカーズにトレードされたブライアントは、西海岸でラップ・ミュージシャンとしてアルバムを製作することになった。それがデビューシーズンを終えた1997年の夏。アルバムのタイトルは「VISION」で2000年の春にリリースされる予定だった。

 私はまだ「レコード」というものが音楽鑑賞に必要不可欠だった昭和の時代にブリティッシュ・ロックで育った人間なので、ラップの良し悪しがあまりわからない。だからラッパーとしてのブライアントの才能までは判断ができない。ただしこのアルバムに挿入されるはずだったシングル「K.O.B.E」を2000年1月に先行リリースしたもののあまり評判が芳しくなく、結局アルバム発売を見送ったという経緯がある。のちに私は彼がヘッドフォンをつけている場面を見たときてっきりラップを聴いているのだなと信じていたが、本人曰く「あれは自分が集中モードに入ったという意思表示をしたまで。音楽は聴いていなかったよ」とのこと。音楽へのこだわりはバスケほどではなかったようだ。

 ではどこで、どうして、どのようにバネッサ夫人とブライアントの人生が交錯したのか?実は2人の縁を取り持ったのはバスケではなくラップだった。NBAのトレードによる東海岸から西海岸への移動だけでは永遠に2人は出会うことなく、別々の人生を歩んでいたことだろう。劇的に運命が変わったのは1999年11月。100万年に1回の出会いとも知らず?当時17歳だったバネッサ夫人は、ある大物アーティストのそばに立っていた。(敬称略・続く)
 
 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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