追悼連載~「コービー激動の41年」その58 ブライアントの進言で?ジャクソンが再登板

[ 2020年4月14日 08:45 ]

2005年にレイカーズでの再登板が決まったジャクソン監督(AP)
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 2005年2月2日。フィル・ジャクソン監督の後任だったルディー・トムジャノビッチ監督はわずか43試合で指揮を執っただけで正式に辞任。ミッチ・カプチャクGMは再び監督探しを開始した。このとき人選に関して大きな影響を与えた選手がいた。それがコービー・ブライアントだった。

 「レイカーズが新たな監督を探し始めた時、ドクター・バス(オーナー)とミッチ(カプチャクGM)に、チームにとってベストだと思った人材を選んで欲しいと伝えた」。候補者の名前を挙げたわけではない。しかし言外には「彼以外にもう人材はいないよね」と暗示していたような雰囲気が漂っていた。

 かくして「ブライアントを放出してくれ」と頼んだばかりに契約の延長を断わられ、犬猿の仲となってシャキール・オニールとブライアントの亀裂の修復に疲れ果てていたジャクソンの“再登板”が決まる。

 「これはまさかそんなことは起らないだろうと思っていた出来事なのだ。もちろん戻れたのはうれしい。復帰した最大の理由はこの町(ロサンゼルス)にチームに対するサポート体勢があるからだ」

 ジャクソンの就任第一声には喜びとともに戸惑いも見え隠れしていたが、とにかくブルズで6回、レイカーズで3回のファイナル制覇を果たした伝説の指揮官がレイカーズに戻ってきた。勇退を決断してからわずか1年。では水と油のような関係で最後まで溶け込むことがなかったブライアントはこの時、どんな感想を述べたかと言うと、これがとても興味深い。

 まず彼は正式に就任が決まった日にジャクソンに電話をかけて「おめでとう」と祝福しているのだ。女性への暴行事件による裁判では、心配したジャクソンが何度も電話をかけたのにダンマリを決め込んでいた男が今度は自ら連絡をとってきた。「自分は彼ら(バス・オーナー&カプチャクGM)を信頼していたから不安はなかった。そしてフィルが勝者となった。ならば自分は全面的にサポートしなくてはいけない」。一方、時同じくしてレイカーズをトレードという形で去っていったオニールも「フィルを祝福したい。彼は卓越した監督の1人だ。幸運を祈る」とコメント。しかしヒートの一員となっていたこともあって、どこか冷めたような談話だった。

 3人がレイカーズにいた時、関係が良好だったのはジャクソンとオニールであって、ジャクソンとブライアント、オニールとブライアントの間には埋めることができない大きな溝があったはずだが、時の経過、そして置かれた立場が異なっていくうちにまったく違う“風景”が広がり始めたのである。

 かくしてひと休みしたジャクソンが監督に戻り、レイカーズの2005~06年シーズンが幕を開けていく。オニールはいなくなってもジャクソンに寄せられる期待とは、つまりはファイナル制覇。それ以外の結果はすべて敗北を意味することになる。この時、ジャクソンは60歳。還暦を迎えていた男はまた新たな戦いに挑んだ。

 しかし開幕20試合を消化して10勝10敗。オニールの穴を埋めるために契約したセンターのクワミ・ブラウンは、2001年のドラフトで当時ウィザーズに在籍していたマイケル・ジョーダンの肝入りで全体トップでそのウィザーズに指名されたとされる選手だが、もしそれが事実ならジョーダンの“目利き”は間違っていた。つまりトップ指名選手としての実績(通算607試合で平均6・6得点)は不十分で、未完の大器のまま?現役を終えるセンターだった。

 ジャクソン再登板の初年度は45勝37敗で西地区全体の7位。プレーオフには進出したが、1回戦でスティーブ・ナッシュを擁するサンズに3勝4敗で敗れた。“突貫工事”でジャクソンを呼び戻したまではよかったが、頂点を狙えるほどの戦力ではなかった。

 ただしこのシーズン、ブライアントはNBAに燦然と輝く大記録を樹立する。2006年1月22日にロサンゼルスで行われたラプターズ戦。それは見方を変えると「永久不滅の大記録」だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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