追悼連載~「コービー激動の41年」その36 バスケの神様に対する規格外の?見送り方

[ 2020年3月23日 08:00 ]

1988年、ブルズ時代のマイケル・ジョーダン(AP)
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 コービー・ブライアントにとって少年時代のアイドルは、父ジョーが76ers時代にチームメートでもあった“ドクターJ”ことジュリアス・アービングだった。8歳で踏み台を使ってダンクを試みたのもそんな影響があった。父がイタリアで現役生活を送っていたとき、部屋の壁に貼っていたポスターはレイカーズの先輩でもあるマジック・ジョンソン。だからローワー・メリオン高校(フィラデルフィア)に入ったとき、背番号はジョンソンと同じ「32」だった。(4年生時は一歩前進の意を込めて33番)。そのジョンソンが得意にしていた速攻からのノールックパスは、高校時代にコービーの“必殺技”として他校の選手や監督を驚かせた。

 しかしNBAに入ってしばらくすると、そのシュート・モーションがブルズの背番号「23」とそっくりになっていく。どちらも右利き。時計とは反対回りとなる「左回り」でドリブルからのジャンプシュート(プルアップ・ジャンパー)を試みる際、ジョーダンはまずボールを持った右手(右肘)をいったん背中側に回す高速フェイクを入れたあと、体を回す前にリリース・ポイントの“座標軸”にセット。そこに体のひねりを加えてジャンプし、マッチアップしている相手のブロックをかわすのだが、ブライアントもほぼ同じ動きをしている。ボールをリリースする右手首の位置が空間で決して動かないところがこのシュートの特徴だ。

 では時計回りの「右回り」、つまりターン・アラウンドからのジャンプシュートはどうかというと、ジョーダンもブライアントも後ろに傾きながらも右足だけは振り子のように前に突き出し、それでバランスを取っている。ブライアントは現役時代、「ジョーダンのフォームをマネた」とは言っていないはずだが、その謎は今年の2月24日に解けた。

 ヘリコプターの墜落事故で41歳でこの世を去ったレイカーズのレジェンドの葬儀に出席したジョーダンは“弔辞”で「驚くかもしれないけど、コービーと私はとても親しい友人だった」と語り、ずいぶん昔からブライアントのメールや電話に付き合っていたのだという。おそらくそこで技術面でのやりとりがあったのだろう。だからこそデビューからしばらくフォームを崩していたブライアントが“ジョーダン化”したのかもしれない。

 2003年3月28日。すでに40歳となっていたジョーダンはウィザーズのユニフォームを着てブライアントとの“最終決戦”に臨んでいた。場所はロサンゼルス。2月のオールスターでは延長終了間際に勝ち越しシュートを決めながら、ブライアントの同点フリースローで再延長に引きずり込まれてヒーローとなれなかったジョーダンにとっては、先輩としての存在感を示して別れを告げたかったはずのゲーム。そしてこの試合では40分出場して背番号と同じ23得点を稼ぎ、まずまずの内容だった。

 しかし試合はレイカーズが108―94で快勝。ブライアントはなんと前半だけで42得点をたたき出し、ジョーダンとのラストマッチで55得点をマークして球宴同様にジョーダンをヒーローの座から引きずり下ろした。

 ジョーダンはブライアントを「普通の人では理解できないPASSION(情熱)が彼にはあった」と語ったが、まさかジョーダンとの最後の一戦でそんなとてつもないパフォーマンスをするとは思っていなかったので、私はどうやって原稿を書いていいのかわからなかった。

 「普通なら試合をコントロールすることに集中するんだけれど、きょうはフィル(ジャクソン監督)からグリーンライト(青信号)が出ていた」と、ブライアントはこの日に限って言えば最初からジョーダンを踏み越えて“見送る”つもりだったようだ。

 「NEXT・JORDAN」と言われることを嫌っていた24歳。比較されることに拒否反応を示していたレイカーズの背番号「8」。それでいてプライベートではしっかり“バスケの神様”の技術を本人から教えてもらっていた?したたかなプレーヤー。レギュラーシーズンでの直接対決は8回だったが、そのフィナーレは実に印象的だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年3月23日のニュース