平野美宇の原点 生まれて初めての“おねだり”は「卓球教室に入れて」

[ 2019年12月10日 10:00 ]

2020 THE STORY 飛躍の秘密

平野美宇
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 卓球女子で初の代表入りを狙うのが世界ランク11位の平野美宇(19=日本生命)だ。シングルス代表の残り1枠の争いで石川佳純にリードを許したが、最終戦のグランドファイナル(12日開幕、中国・鄭州)で再逆転を狙っている。彼女の原点は母親が山梨で運営する卓球教室にあった。小さいころからわがまま一つ言わなかった平野が唯一ねだったのが卓球教室への参加。教室への入学、そして卒業して地元を出るまでを見届けた両親の言葉から、成長の過程に迫った。

 ◆遊びの要素入れた指導
 西方に雄大な南アルプスを望む山梨県中央市。平野の礎はこの地にある、母・真理子さん(50)が営む卓球教室で養われた。3歳半でラケットを握り始めて入門を許され、エリートアカデミー入校を機に山梨を巣立つまでの約8年間。平野の汗と涙が染み込んだ卓球場は、現在は約70人の生徒が“第二の美宇ちゃん”を目指して日々トレーニングを積んでいる。

 「生まれて初めての美宇のおねだりが卓球教室に入れてでした」。真理子さんが振り返る。筑波大卓球部で主将経験があり約10年間教員を務めていた真理子さんが、子供たちに教える仕事がしたいとの思いから、小学生3人でスタートした卓球教室。3歳の平野は当初安全を理由に参加を許されなかった。

 教室に入る条件は真理子さんの試験に合格して卓球のレベルを認められること。最初は5分程度のボール遊びから始まった平野の卓球は10分、15分と日を追うごとに長くなり、ラリーも続くようになった。指導方法は元教員らしく遊びの要素を取り入れた。卓球台に「ひ・ら・の・み・う」というブロックを並べ、それを狙ってボールを打ち込んだこともあった。4歳になる手前で教室の仲間入りを果たすと、早速地元の大会でデビュー。そこからは練習の虫となって、4歳2カ月で全日本選手権バンビの部に最年少出場した。後に平野は「あまり下手だとチーム失格になってしまうんじゃないかという思いで必死だった」と明かした。

 ◆母も驚いた「五輪で金」
 幼い頃の将来の夢は「キティ屋さん」だった。それが小学1年で出場した07年全日本選手権バンビの部で優勝した後のインタビューで自らの口から「五輪で金メダル」と言った。驚いたのは真理子さんだった。それまで家では五輪について話をしたことはなかったからだ。5歳の頃“第二の愛ちゃん”とメディアに取り上げられ、取材の中で「五輪で金メダル」を半ば言わされていたところもあったが、日本一を経験したことで「もう私の夢は五輪で金メダルなの」と目の色が変わった。

 宣言後は練習態度も変わった。小学2年の全日本ジュニアで1勝し、福原愛さんの持つ最年少記録を2年更新したことでトップでやっていけることを両親は確信。今までの練習では五輪は目指せないと真理子さんも平野の指導に本腰を入れる覚悟を決めた。

 一方で愛ちゃん2世と呼ばれることに違和感も覚え始めた。活躍しても新聞では「愛ちゃん2世が活躍」と見出しが躍った。平野は幼心に「美宇のことなのに、愛ちゃんてなんで載るの?」と疑問も持っていたという。愛ちゃんと呼ばれること自体にも嫌気が差した。そんな娘を見かねて真理子さんは「みんなはまだ美宇をよく知らない。愛ちゃんみたいに強くなって知ってもらえば美宇という名前が載るんだよ」と諭した。その後、小学2年のジュニア大会で活躍した翌日の紙面に「みう」の見出しを見て喜びを感じ始めた。

 ◆小学生で高校生レベル
 平野はさらに実力を付けるべくオール山梨の協力の下で練習を続けた。山梨県には実業団の強豪チームもないため、小学生時代には高校生レベルに達していた平野の練習のために出稽古や臨時コーチを依頼する日々だったという。「山梨県でできる精いっぱいをやった」と真理子さん。過去の山梨チャンピオンを練習パートナーにスカウトするなど、12歳でエリートアカデミー入校まで最大限の支援を続けた。

 今年11月、平野は緊張感の増す五輪選考レースの合間を縫って、地元山梨のイベントに出演するため久しぶりに帰郷した。2年前、コーチの交代などが原因で調子を崩し成績が出ない時期はラケットを握ることすら嫌になったというが、真理子さんは元気に帰郷した娘の姿を見て復活の兆しを感じ取っていた。「五輪出場に向かって頑張れていること自体が金メダル」。最大の理解者の思いを背に、平野は最後の戦いに挑もうとしている。

 ≪父・光正さん 娘と5年ぶり共同生活でサポート≫18年4月にエリートアカデミーを1年前倒しで修了し、プロ選手に転向した平野の活動を支えているのが父の光正さん(51)だ。不調を打開するために環境を変えたいという娘の思いに応えようと、内科医の光正さんは地元・山梨の病院を辞め、都内の病院に勤めながら娘のサポートをすることを決断。「何とか夢をかなえさせてあげたいという思いが強かった」と思いを語った。

 娘とは約5年ぶりの共同生活。食事や車での送り迎えなどサポートは多岐にわたる。国内の試合は可能な限り足を運び、海外での試合はネット中継でチェック。「とにかく美宇を一番優先で動いています。身近なマネジャーですね」と笑う。

 “2人暮らし”を始めてからは平野の気持ちの落ち着きを感じたという。「最初のころはあまり自信がなかったが、1年半過ごしてきて、プレーが良くなってきたと感じる」と振り返る。東京五輪代表切符が懸かるグランドファイナルは現地でサポートする予定だ。「最後まで最善を尽くしてやりたい。少しでも力になりたい」と目を細めた。

 ◆平野 美宇(ひらの・みう)2000年(平12)4月14日生まれ、山梨県中央市出身の19歳。16年リオ五輪は代表入りを逃し、補欠で同行して練習相手を務める。17年1月の全日本選手権シングルスで史上最年少優勝を達成すると、同年アジア選手権は日本人として21年ぶりに優勝を果たした。1メートル58、51キロ。戦型は右シェークドライブ型。12月発表の世界ランクは11位。

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