竹内力 マニュアル無視の型破りな銀行員で業績トップも役者転身 やんちゃな役で楽しさ実感

[ 2023年3月19日 08:00 ]

生きざまを語る竹内力(撮影・西尾 大助)
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 【俺の顔】ビデオ映画「難波金融伝・ミナミの帝王」や「仁義」シリーズで「Vシネの帝王」と呼ばれた俳優の竹内力(59)。実は四半世紀以上前から製作会社を経営しており、プロデューサーとしての顔も持つ。「我が道を切り開く」という意味で、自らが作った造語「我道切開(がどうせっかい)」がモットー。そのゴーイングマイウエーな人生とは…。(望月 清香)

 トレードマークのリーゼントにきりりとした眉毛。日本人離れした彫りの深さに目がギョロリ。迫力というか、圧力というべきか。独特のオーラが漂う。

 「“コワモテ”ってよく言われるけど、実際に子供の頃からやんちゃだった。ぶち切れたら止まらない。ただ弱い者いじめは絶対にしない。弱い者いじめするヤツをいじめていた」

 眉間にギュッとシワを寄せて鋭い眼光でカメラをにらむ。モノホンのミナミの帝王…萬田銀次郎だ。ただ、目の奥には優しさも見え隠れする。その振り幅が竹内力という人間なのだろう。

 言葉にたがわず、若い時から型破りな人生だった。今では想像もつかないが、高校卒業後に足を踏み入れたのは銀行業界。真面目で勤勉な社員が多い世界で異色の存在だった。窓口業務での顧客へのあいさつは「へい!らっしゃい!」。マニュアルは完全に無視して我が道を突き進んだ。当然、上司には怒られたが、このフランクさが噂になり、竹内の窓口にだけ行列ができるようになった。営業成績トップに上り詰めたものの、何かが物足りない。2年2カ月で退職した。

 そこで出合ったのが芸能界だ。六本木のライブハウスでアルバイトをしていたところをスカウトされ、1986年に俳優デビュー。バブル経済の当時はトレンディードラマ全盛期で、優男キャラが受けてトントン拍子。フジテレビ「101回目のプロポーズ」(91年)のバイオリニストなど好青年役のオファーが続いた。実はこれにも居心地の悪さを感じていた。

 「歩き方一つで“品行方正な役なんだからガニ股で歩かないで”と注意される。自分と180度違う役はしんどい…」

 本来の自分と正反対のイメージを演じることへの苦痛から廃業まで考える中、当たり役に出合った。それが「難波金融伝・ミナミの帝王」(92年)、「仁義」(94年)シリーズだった。

 「やんちゃな役をやるとめちゃめちゃ評判がいい。生きていて楽しいなって思った」。アウトローな作品に活路を見いだし「自分のやりたいことだけやって駄目なら田舎に帰ろう」と97年に独立。製作会社を構え、俳優との二刀流に乗り出した。

 「俳優が自分で製作会社をつくることは“仕事はいらねえよ”と言っていることと一緒。だったら仕事は自分で生み出せばいい」

 「ミナミ…」は多い時で年間6本制作。「単館映画を作るのが夢」だった会社はどんどん大きくなり近年では「死刑にいたる病」(22年)、「茜色に焼かれる」(21年)など話題作に携わっている。

 仕事を選ぶことは決断と覚悟の繰り返しだが、その軸を「思いっ切りの良さ」と話す。小さい頃から勉強は大の苦手だったものの、時代より少し先を走る感覚は自然と身につけていた。日々、スマホでニュースをチェックしたり、芸能人よりも経営者に友人が多いのも新しい刺激を求めているからに他ならない。

 「常に新しいことをやらないと目を向けてもらえない。明日死んでもいいやっていうぐらいに頑張らないともったいない」。自らのモットーである「我道切開」という言葉も自ら道を切り開くという意味だ。

 芸能界でいち早く14年にLINEスタンプを発売したのも先見の明。プライベートは底抜けに明るいキャラで「ミナミの帝王」のイメージを覆すおちゃめな姿が最近は好評を博している。

 「若い人に可愛いって言われるのはうれしいね」。そう言うと太い眉毛がハの字になった。コワモテの頬に、くっきりとしたえくぼが浮かんだ。

 ◇竹内 力(たけうち・りき)1964年(昭39)1月4日生まれ、大分県出身の59歳。86年に映画「彼のオートバイ、彼女の島」でデビュー。ビデオ映画「岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説」シリーズ(01~07年)など多数のヒット作に出演。97年に映像製作会社「RIKIプロジェクト」を設立。1メートル80。血液型A。

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