さとう宗幸 故郷への思い歌に ありのままの「杜の都」伝える「“頑張れ”って歌は書きたくない」

[ 2021年3月12日 05:30 ]

東日本大震災から10年――忘れない そして未来へ(12)

さとう宗幸(右)は避難所で慰問コンサートも行う
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 東日本大震災から10年。被災地ゆかりの人たちが「あの日」の生々しい記憶とその後の10年を振り返りながら、被災地にエールを送るインタビュー企画。最終回は宮城県仙台市を拠点に活動する歌手のさとう宗幸(72)です。

 あの日、さとうは司会を務める宮城県のローカル番組「OH!バンデス」の生出演のため、JR仙台駅から約5キロ離れたミヤギテレビに車で向かっていた。到着まであと500メートル。そこで緊急地震速報が鳴り響いた。すぐに車を路肩に止めた直後、激しい揺れに襲われた。

 「視界に入るもの全てが揺れて、右隣には大型トラック。横転したら命はないと覚悟しました」。出演予定の番組は中止。普段は仙台市内の自宅まで30分で着くところ、大渋滞で3時間かけて戻った。自宅は比較的被害は少なかったが、電気やライフラインがストップ。夜には「今まで見た中で一番奇麗だった。なんでこんな日に」と思うほど、満天の星空が広がっていたのを覚えている。

 「宗さん」の愛称で地元の人に親しまれながら、仙台の移ろいゆく景色を見てきた。「いまだにダンプや重機が動いて、本当に10年?」と率直な気持ちを吐露。「一日も早く昔のような町の色やにおいが戻ってほしい」と願っている。

 1978年発売の「青葉城恋唄」は日の光を浴びる広瀬川の情景が思い浮かぶ、さとうのデビュー曲で、緑あふれる「杜の都」という呼称を広めた仙台を代表する名曲として愛されている。そんなさとうの元には、被災地以外から「復興ソングを作ってほしい」と歌詞が寄せられることもあった。

 気持ちはありがたかったが、それでも「言い方は悪いけど、あの津波や揺れの恐怖を経験したのか?と思ってしまった」。送られてきた歌詞のどれにも、曲は付けていない。

 自らも被災者だからこそ譲れないものがある。岩手県の避難所で出会った女性から「頑張れって言われるけど、私たちも頑張ってるんだよ」と涙を浮かべて言われた。「最終的に“頑張れ”って歌は書きたくない」。心に強く決意した。

 「同じ故郷を思う人間として、これからも気持ちやつながりを歌で伝えていきたい」

 さとうが歌い続けてきた町並みの美しさや、自然の豊かさ――。同じ被災者だからこそ作れる“故郷の歌”を届けたいと思っている。(小田切 葉月)

 ◆さとう 宗幸(さとう・むねゆき)本名佐藤宗幸。1949年(昭24)1月25日生まれ、岐阜県出身の72歳。宮城県古川市(現大崎市)で育ち、東北学院大在学中に音楽活動を開始。78年「青葉城恋唄」が100万枚を売り上げる大ヒット。同年、紅白歌合戦に初出場。81年にドラマ「2年B組仙八先生」に主演。ミヤギテレビの夕方の情報番組「OH!バンデス」は昨年4月に25周年を迎えた。

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