筒美京平さん、才能の根源は歌手の発掘と特長生かすアレンジ 作詞家・橋本淳氏“弟分”を悼む

[ 2020年10月13日 05:30 ]

ブルーライト・ヨコハマのジャケット写真
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 急逝した人気作曲家・筒美京平さんとタッグを組み、いしだあゆみ(72)の「ブルー・ライト・ヨコハマ」など数々のヒットを飛ばした人気作詞家の橋本淳氏(81)。公私にわたり親交が深かった希代の天才ヒットメーカーを「20年以上にわたって、時代のポップスをヒットさせ続けた、あんな才能はもう現れないでしょう」と称えた。

 青山学院高等部で筒美さんは1つ年下の後輩だった。大学時代は同じジャズバンドで活動し、作曲家のすぎやまこういちさんの元に連れて行き、弟子入りさせた。

 元々ピアノが上手だったが、彼の凄さはアレンジも一緒に全部作ること。おそらく頭の中でアレンジの譜面ができていて、そこにコード進行の配列を考える。そうなると、ただ作曲するだけとは、かかる労力がまるっきり違う。ギター、ビオラ、ベースなど全ての譜面を書くことになり、3分間の楽曲を作るのに10時間くらいはかかる。彼はそれを全部自分でやっていた。単に主旋律のメロディーを考えるだけでなく、全体のアレンジから作り上げるところが筒美サウンドの極意だと思う。

 その時代のリズム感など生活に密着したアレンジを考えられるから、大ヒット曲になる。それを何十年と真面目に書き続けてきた。

 さらに彼が作曲家として優れているのは、売れる声の歌手を見つけるのが上手だったことだ。自分が生み出したメロディーを生かす歌声を見つける能力が高く、その声の特長を生かすバックのアレンジも作ることができる。これが比類なき才能の根源だった。

 ボクは40歳ぐらいで作詞家としての活動にひと区切りをつけた形だが、彼は60歳ぐらいまで現役の第一線で作り続けた。だから疲れちゃったのかもしれない。ここ数年は病気療養が続いていたけど時折、パン屋さんか花屋さんになりたいと言っていた。本当に根っこから真面目で、温かくて、市民的な人だった。

 あれだけのヒットメーカーにもかかわらず、メディアに露出することを好まず、自分は裏方だという意識が強い人だった。最後までその意識を通した彼を思い、僕はひっそりと家族で営まれた葬儀に参列しました。心の底から「お疲れさまでした」と伝えました。(作詞家)

 ▼いしだあゆみ(68年「ブルー・ライト・ヨコハマ」など)ブルー・ライト・ヨコハマをはじめたくさんの素敵な曲を作っていただき感謝しています。これからも大切にしていきます。ご冥福をお祈り申し上げます。

 ◆橋本 淳(はしもと・じゅん)1939年(昭14)7月8日生まれ、東京都出身の81歳。60年代初頭から作詞を始め、67年ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が150万枚の大ヒットで日本レコード大賞受賞。筒美さんとは大学時代にジャズバンドを組み、筒美さんのデビュー作「黄色いレモン」(66年)も作詞している。

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2020年10月13日のニュース