[ 2010年7月3日 06:00 ]

盛大な喝采を受けてアンコールに応じるサロネンとフィルハーモニア管 ※写真はサントリーホール提供

 コンシェルジェはこのように語ります。

 「かつてエサ=ペッカ・サロネンを取材した際、彼は自分のことを“作曲家で指揮者”と語っていた。つまり彼の中では作曲家としての活動に重きが置かれているわけで指揮者は“副業”的なものなのだと考えているのではないか。日本滞在中のサロネンが日中、ホテルのロビーのソファーに座って一心不乱に五線紙に向かっている姿を何度か目撃したこともある。それはまさに寸暇を惜しんで作曲に勤しんでいる様子だった。現代を代表する北欧の作曲家グループのひとりとして、高い評価を得ている作品をいくつか残している。それだけに先人の作品に対しても、その構造や隠された魅力を細密に分析し、それをクリアに表現する指揮者としてのタレントにも秀でているのだろう」。

 そして、幻想交響曲での緻密な音楽作りにも増して私の心を捉えたのは、音楽に内在する民族の息吹がマグマのように噴出したプログラム前半の2曲でした。1曲目、ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」(原典版)は、洗練されたリムスキー=コルサコフの編曲版よりも、ずいぶんと荒くれた曲だなとの印象。原典版をこの日初めて聴いた私は、なぜサロネンがこのバージョンを選んだのだろうかと疑問を持ちました。
続くバルトークの組曲「中国の不思議な役人」。これが私にとっては目から鱗が落ちるような体験となりました。血沸き肉踊るような粗野な響きを浴びているうちに音楽に取り憑かれていくような感覚。初演当時はどのように聴衆に受け取られたかも脳裏をよぎります。ショッキングだったに違いないでしょう。オーケストラ全体がフォルティシモで演奏すると、ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「春の祭典」で得る感覚とオーバーラップしていく。それを聴いているうちに「はげ山の一夜」では、バルトークよりもさらに深いところでマグマがうずいていたことに気付かされたのです。なぜ、原典版を使ったのかという疑問はたちどころに氷解しました。また、マグマのようなエネルギーの噴出の中には現代音楽につながる原点のようなものすら感じさせてくれたのです。音楽の奥底に存在する民族の魂を紐解いて見せてくれたサロネンのプログラム作り。世界屈指の指揮者でありながら現代音楽の作曲家としても活躍しているからこそ、なせる業なのかもしれません。
コンシェルジェは言います。
 「確かに小谷さんが感じ取ったようにロシア、ハンガリー、そしてフランスとそれぞれの作曲家の民族性やお国柄を強く意識したプログラミングであり、民族の魂がマグマが噴出するがごとく鮮烈に伝わってくる演奏だった。サロネンは“はげ山の一夜”で初版を使用したことでも分かるように作曲家のファースト・インスピレーションを重要視し、そこにその民族ならではの息吹や土属性を強く感じ取っているはず。作曲者自身がその後に行った改訂やリムスキー・コルサコフによるオーケストレーションも含めて全面改訂された版(現在一般的に演奏されているもの)は、作品がより彫琢されている半面、スラブの民族性やロシアの大地を感じさせる土属性は大幅に失われる結果となったからだ。さらに幻想交響曲では第2楽章にコルネットのオブリガードが入った版を採用していたのも面白い。通常のコルネットを使わない版に比べてフランス的なエスプリを感じさせる雰囲気が強まる。もうひとつ付け加えるとアンコールはシベリウスの“悲しきワルツ”とワーグナーの“ローエングリン”第3幕への前奏曲。まるで音楽の“万国博覧会”のようだが、こうしたプログラムを通してサロネンが意図したことが、明確に伝わってくる巧みな構成となっていた」。

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2010年7月3日のニュース