【内田雅也の追球】教育者としての野球人 松前重義氏の根底にあった気骨とロマン

[ 2022年1月15日 08:00 ]

元東海大総長の松前重義氏

 勝利の時、東海大総長・松前重義は神宮球場三塁側応援席の最前列に飛び出していった。学生や関係者から握手を求められ、喜びに浸った。1969(昭和44)年6月15日、全日本大学野球選手権で東海大が初優勝を果たした瞬間だ。

 当時の本紙記事に「目標達成の可能性は五分五分とみていた」と談話がある。目標とは自ら動いた首都大学リーグ創設から「5年以内で日本一」という公約である。

 松前が自身創設の東海大で野球強化に乗り出したのは63年だった。当時、東都リーグ3部のその下、準加盟の扱いだった。全日本選手権出場の道を探り、新リーグ創設に動いた。明大監督・島岡吉郎らの協力を得て64年、日体大、東京教育大(現筑波大)など7校で首都大学連盟が発足。東海大野球部もこの年を設立としている。

 この時、新興チームを「5年で日本一」とぶち上げ、見事達成したのだった。立役者は下手投げのエース、上田二朗(後に阪神)だった。

 選手権では4日連続、4試合を完投、計475球を投げた。準々決勝で明大、決勝で日大と、打倒を掲げていた東京六大学、東都の優勝校を破り、宿願を果たした。

 グラブに「魂」の文字を書き込み「現在の僕のすべて。自分の心であり、総長、監督の心でもある」と話した。

 南部(和歌山)で控え投手だった上田をスカウトしたのは明大コーチから初代監督に就いた岩田敏(旧姓・二瓶)だった。「アンダーハンドを探していた」と、65年夏の和歌山大会で、同年春の選抜準優勝、藤田平(後に阪神)擁する市和歌山商(現市和歌山)を破る好投を演じた上田に目をつけたのだった。

 上田は入学直後、岩田に呼ばれた。「私は総長から日本一を依頼されている。おまえを獲得したのもそのためだ。1年目から使い続けるから人の3倍は努力しろ」。実際、1年春の開幕戦から起用された。完投し帰寮後に投げ込んだこともある。

 野球部強化には大学宣伝の狙いもあったろう。しかし、上田の感じた「魂」とは、根底にある松前の気骨や情熱的なロマンだったに違いない。

 岩田や上田の胴上げを見つめた松前が語っている。時は70年安保で学生運動が展開されていた。「揺れ動く世相に純粋なスポーツは光明を与える。その意味でうれしい」。教育者としての野球人であった。 =敬称略=

 (編集委員)

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