【内田雅也の追球】新人たちよ「孤独に勝て」 偉大な先人たちも通って来た道

[ 2022年1月7日 08:00 ]

阪神・新庄21歳の誕生日、虎風荘の前はプレゼントを手にした女性ファンであふれた(1993年1月28日)
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 新庄剛志はプロ1年目の1990年、ほとんど2軍で過ごした。2軍戦と練習を終え、阪神独身寮「虎風荘」に帰る。1軍が甲子園球場でナイターの試合中、屋上でバットを振った。

 阪神担当のころに聞いた話を思い出す。「照明の光が見え、歓声が聞こえてくるんですよ」。当時の虎風荘は球場の東側、甲子園筋をはさんだところにあった。「いつかあそこでスポットライトを浴びるって想像しながら振るんです。逆転サヨナラホームランとか、自分がヒーローになる光景を想像してね」

 西日本短大付からドラフト5位で入団した18歳は夢を描いていた。「僕は夢は必ずかなうと思っていました。だから独りで練習していても辛いなんて思わなかった」。1年目の9月に1軍デビュー。2年目からスターへの階段を駆け上がった。

 その歩みは独りでいた寮の屋上から始まっていたわけだ。だから、昨年10月、日本ハム監督就任後のツイートも合点がいく。「努力をしていない人間ほど、すぐ人のせいにし、不貞腐れ、自分から逃げる」。自分との闘いに勝って今がある。

 6日は6球団で新人選手の入寮があった。94年、鳴尾浜に移転した虎風荘にも阪神の新人がやって来た。荷物をほどき、先輩にあいさつし、部屋に戻る。独りである。

 故郷を離れ、孤独を感じることもあろう。大いなる未来に向け、言葉を贈りたい。孤独に勝て!

 阪神の先人で言えば、藤田平も掛布雅之も孤独との戦いに勝ってきた。藤田は虎風荘で当時あった輪番制の電話番をすすんでやった。「先輩から遊びに誘われても断る理由になった。よく電話番を交代した」。砂を詰めたビール瓶で手首を鍛え、バットを振った。

 福留孝介が一昨年秋、阪神を退団する際、2軍選手に残した言葉は「1人でやる練習を大切にしてほしい」だった。

 藤川球児は独りでの思索を大切にしていた。<ひとりで考え事をしているときは自分の世界に入ってきてほしくない>と著書に記した。

 急がなくてもいい。高村光太郎の『牛』に<牛はのろのろ歩く><自分の行きたいところへはまっすぐに行く>とある。そして<牛は自分の孤独をちゃんと知っている><じっと淋(さび)しさをふんごたえ/さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く>

 孤独を受けいれ、歩んでほしい。 =敬称略=

 (編集委員)

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2022年1月7日のニュース