【内田雅也の追球】正月大会にみる「使命」を思う コロナ禍の今こそ

[ 2021年1月8日 08:00 ]

1937年元日、初の正月大会が開かれた呉・二河球場。写真は1993年4月20日、改装後に行われた広島-横浜戦
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 1月7日は今から83年前、タイガースが優勝を決めた日である。今のプロ野球2年目を迎える1937(昭和12)年、セネタース、金鯱との3球団で総当たりのオープン戦を行った。元日から7日まで、呉・二河球場~広島商校庭~甲子園球場~神戸市民球場と連日2試合を行った。

 最終日、神戸市民球場でセネタースのエース野口明に毎回全員の21安打を浴びせ、16―6と大勝、通算7勝1敗で優勝を決めたのだった。
 これが戦後47年まで恒例行事だった正月大会の始まりである。今では考えられないが、当時は正月も何もなかった。
 タイガースは主将・松木謙治郎が前年11月に死球を受け右膝骨折で入院中。小川年安、平枡敏雄が入営し、監督・石本秀一以下、選手15人の小所帯だった。<大みそかに大阪を出発して広島で除夜の鐘を聞いた>と阪神球団発行『阪神タイガース 昭和のあゆみ』にある。石本はじめ、藤村富美男、門前真佐人、塚本博睦、岡田宗芳……ら広島出身者が多く<非常な歓迎を受けた>。
 プロ野球発足時から日本職業野球連盟関西支局長だった小島善平が残した日記に幾度か関西正月大会が登場する。この37年の日記はないが、同じく呉で新年を迎えた43年はこうある。数字や漢字表記は現代風に改めた。
 <1月1日(金)晴 暖 11時、甲子園拝賀式に参列 呉海軍工廠(こうしょう)選手慰安野球に、年頭、日本野球の使命達成に、大阪を14時5分発にて出発す。午後9時58分、呉着。大毎柿本支局長らの出迎えを受け紅葉館に入る。結構なる夜食に呉の銘酒を頂く。2日の打ち合わせ終了>
 酒宴となり、阪神専務・冨樫興一や審判員・川久保喜一が大いに気勢を上げた様子がある。
 <1月2日(土)晴 暖 小春日和の晴天に盛装なれる二河公園球場にて予定の時刻、工廠軍対連合軍の試合。敢闘また敢闘、万余の観衆に最大の満足を与え、十分、目的を達成>
 野球が盛んだった海軍工廠とプロ連合軍の試合で大いに喜ばれた。本塁打競争の余興もあった。
 使命や目的とは何だったのか。当時の連盟綱領に「闊達(かったつ)敢闘協同団結の理念を高揚」「健全慰楽(いらく)を供する」とある。戦時、人びとの心に潤いをもたらし、豊かにする。何か、コロナ禍の今にも通じるようである。 =敬称略=
 (編集委員)

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2021年1月8日のニュース