【阪神新人連載】岩田将 大学3年時に決意の左肘手術 プロで“親孝行”誓う

[ 2020年12月30日 11:00 ]

牙を研ぐルーキー2020 育成1位・岩田将貴投手(下)

18年、九産大で全日本大学野球選手権に出場した岩田将

 中学時代の活躍により九州にある複数の強豪校から誘いを受けた将貴は、地元・福岡県内の九産大九州を選択した。入学当初は高校球児の憧れである甲子園にも「あまり思い入れはなかった」と回想するが、1年秋の九州大会準決勝・九州学院戦で先発し9失点と打ち込まれたことで、負けん気の強さが再び顔を出した。

 「やっぱり上を目指したいと思った」

 食への意識も変わり、入学時60キロに満たなかった体重を70キロ近くまで増やした。2年時の選抜では1回戦で近江に0―2で敗れたが、2失点完投。以降、甲子園出場はかなわなかった。プロ志望届を提出することも考えたが、九産大に進んだ。

 両親は大学での寮生活を許可してくれたが、大久保哲也監督から「寮費をそのまま食費に使ってあげてください」と配慮された。大学も実家から通い、高校では越えられなかった体重70キロの壁を突破。2年春のリーグ戦では7勝無敗、防御率1・44と圧倒的な成績でMVPにも輝いた。

 一方で、左肘が悲鳴をあげていた。リーグ戦中に痛みを感じ、だましだまし投げ続け6月の全日本大学選手権でも4強入りしたが、限界だった。じん帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)は復帰に時間がかかると考え、遊離軟骨除去手術とPRP(自己多血小板血しょう注入)療法の保存治療を選択したが、結果的に復活までに長時間を要することになった。

 11月に術後初めて投げた時も痛みは治まっておらず不安が募った。高校2年時に修学旅行先から母・京子さんの誕生日に「ありがとう、感謝してます」などLINEでスマートフォンの画面半分を占める長文を送るような両親思いの将貴。心配をかけまいと「なかなか言えなかった」と振り返るが、大学3年の8月にトミー・ジョン手術に踏み切った。実戦復帰は4年秋のリーグ戦。5試合に救援登板したが計6イニングにとどまった。プロ入りを半ば諦めていたが、左の変則タイプを求める阪神の目に留まった。

 京子さんには忘れられない光景がある。トミー・ジョン手術後の10日間はギプスを付けての生活。入浴の介助をしている時に「なんであんたばっかりそんな痛い思いをしないかんの。私がちゃんと産んでおけばね」と2人で涙を流し、運命を呪った。だが、それもプロ入りに必要な試練だったのかもしれないと今なら思える。将貴は言う。「甲子園で成長した姿を見せてあげたい」。22年間、ずっと近くで支えてくれた両親への恩返しの旅が始まる。 (北野 将市) =終わり=

 ◆岩田 将貴(いわた・まさき)1998年(平10)6月16日生まれ、福岡県出身の22歳。吉塚小1年からソフトボールを始める。吉塚中では福岡ボーイズ所属で主に投手。九産大九州では1年夏からベンチ入り、同年秋からエース。2年春に甲子園出場。九産大では1年春からリーグ戦に出場して2年春7勝でMVP。1メートル78、83キロ。左投げ左打ち。

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