【内田雅也が行く 猛虎の地】「伝統の一戦」阪神-阪急の舞台 「西の早慶戦」を目指したライバル

[ 2020年12月13日 11:00 ]

(13)宝塚球場

ネット裏にクラブハウスがあった宝塚球場=野球殿堂博物館提供=

 「伝統の一戦」と言えば、巨人―阪神戦を指す。現行のプロ野球で最初に誕生したのが巨人、次が阪神で、老舗球団同士の対戦、東京―大阪の対抗という図式がある。

 ただし、この言い方が定着したのは戦後、特に1949(昭和24)年から50年にかけての2リーグ分立前後と思われる。

 1リーグ時代は「伝統の阪神―阪急戦」という言い方があった。親会社がともに大阪―神戸間に電車を走らせるライバルだった。プロ野球初年度の36年4月、欧米視察旅行から帰国した小林一三は新生阪急軍の視察に訪れ訓示している。『阪急ブレーブス五十年史』にある。「諸君の手で日本一強いチームを作ってくれ。大阪タイガースには絶対に負けるな」

 この場所が本拠地・宝塚球場である。1922(大正11)年6月15日完成。阪急は宝塚新温泉、パラダイス、少女歌劇団、動物園などを設け、一大レジャーゾーンを目指していた。スポーツ施設としてテニスコートなどと建設した。野球場は1万人収容。ネット裏にクラブハウスがあった。

 阪神電鉄専務・細野躋(のぼる)は阪急に定期戦を持ちかけた。社史『輸送奉仕の五十年』にある。<阪神、阪急は電鉄の商売上でかなり激しい競争をしていた時代だから、野球の方も競争をすると早慶戦に負けぬくらい人気が出るだろう>。

 第1回定期戦は公式戦の合間、36年9月12―14日、甲子園で行われ、有料入場者6274人、7187人、5139人と入った。6月27日、同じ甲子園での巨人との初対戦が2407人である。

 その定期戦に1勝2敗と負け越した。初代主将・松木謙治郎の『タイガースの生いたち』(恒文社)によると、本社重役が次回に向け「全従業員の士気にかかわる。どんなことがあっても勝利を納められたい」と訓示した。松木は<また敗れることになれば、本社の面目上、球団を解散する雲行きさえ感じた><寿命の縮まる思い>だった。

 第2回定期戦の会場は宝塚球場だった。10月17日の初戦を落とし、背水の陣で連勝し雪辱を果たした。第3戦の20日夜には鳴尾のみやこ旅館で球団主催のすき焼き祝勝会が開かれ、<創立以来初めて酒が出された>。翌21日には球団会長・松方正雄が売布の私邸に球団役員、選手一同を招いて祝勝会が催された。

 その好敵手と経営統合となり、同じ傘下にあるとは歴史のいたずらか。

 37年に西宮球場が完成し、宝塚球場は使われなくなった。後に宝塚映画の撮影所、戦後は宝塚ファミリーランドとなった。遊園地閉鎖後の2008年4月には関西学院初等部(小学校)が開校となった。 =敬称略=
 (編集委員)

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