【内田雅也の猛虎監督列伝(14)~第14代・藤本定義(第2次)】江夏の「おじいちゃん」の潮時

[ 2020年5月3日 08:00 ]

1968年9月8日 中日戦で22勝目を挙げた江夏(左)を出迎える阪神・藤本監督
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 杉下茂は監督更迭となる前に大切な一仕事をしていた。1966(昭和41)年夏、球団社長・戸沢一隆に「大阪の高校生投手を見てきてくれ」と依頼された。大阪学院高の江夏豊である。

 球団内ではスカウトの佐川直行、河西俊雄で意見が割れていた。佐川は「カーブも放れん」と評価が低かった。戸沢は名投手だった杉下の眼力に頼ったのだろう。

 7月30日、甲子園でのナイター中日戦の前、大阪大会準決勝、桜塚に0―1で敗れた試合を日生球場で視察した。「これは獲るべきだ」と進言した。「確かにカーブは放れないが、球速と左投手で(右打者の)外角への制球力が優れていた」

 前回書いたように、杉下は8月13日に更迭され、監督には9カ月ぶりに藤本定義が復帰した。同年9月5日の第1次ドラフトで1位指名し、抽選で交渉権を獲得。入団にこぎ着けた。

 藤本はこの監督復帰の際、当時珍しかった秋季キャンプ(高知・安芸)を球団に進言していた。「オフシーズン前にやっても意味がない」など反対も多かったが「春からでは遅い」と決行した。

 このキャンプに入団が内定したばかりの江夏ら高校生3人も参加。江夏は11月10日の初日から藤本の前で投球練習を行っている。紅白戦にも登板した。また、新人・藤田平を遊撃で鍛え、吉田義男の二塁転向に備えた。

 明けて67年。62歳になっていた藤本は18歳の江夏を孫のようにかわいがった。江夏は自伝『左腕の誇り』(新潮文庫)で藤本を「おじいちゃん」と呼んでいる。父のいない江夏は藤本を慕った。

 たとえば遠征先の旅館では朝、藤本の部屋に呼ばれる。<茶菓子を食べながら一時間ほど話を聞く>。沢村栄治やスタルヒンの速球、松山商時代の話、女の話で「おまえも気をつけろ」……。

 そんな江夏が<おじいちゃんのすごさを初めて知った>という一件がある。江夏は1年目からオールスターに選ばれた。全セ監督の川上哲治による監督推薦だった。そして3戦とも投げた。

 球宴明け巨人戦のあった8月1日の甲子園。試合前練習中、藤本が「テツっ!」と巨人監督の川上を呼んだ。「おまえ、うちの江夏を3連投させやがって」川上は直立不動だった。以前にも書いたが、藤本は川上が巨人入団時の監督だった。

 67年、阪神は3位で、優勝した巨人とは14ゲーム差がついた。新人・江夏は12勝13敗。右手指の血行障害と闘った村山実は13勝9敗だった。

 68年。藤本は阪神監督となって8年目(66年前半の総監督期間を含む)を迎えていた。開幕から5連敗で悪夢のようなスタートとなった。前半戦は借金3の4位、首位巨人に8・5ゲーム差だった。

 8月に入ると「死のロード」期間に快進撃。7連勝、9連勝で、月初めに10・5あった巨人とのゲーム差を1・5まで追い上げた。

 9月17日から巨人と首位攻防4連戦があった。江夏はシーズン奪三振のプロ野球記録、稲尾和久(西鉄)の353を上回る354個目を「王さんから取る」と公約していた。9月17日の甲子園。4回に王貞治から三振を奪いタイ記録。ここから打者一巡、三振は奪わず凡打に仕留める投球でしのいだ。7回に迎えた王を速球で空振り三振に仕留め、新記録は成った。

 この試合は0―0の延長12回裏一死一、二塁で江夏自ら右前打を放ち、サヨナラ勝ちした。江夏は19日も巨人を完封して4連戦は3勝1敗、ゲーム差なしまで迫った。

 28日からの巨人3連戦(後楽園)が最後の決戦だった。江夏は28日、29日のダブルヘッダー第2試合に先発し、いずれも敗れた。本紙記者・田中二郎は<逆転優勝の望みも東京の秋風とともに消えていった>と書いた。

 藤本は潮時と感じていたようだ。著書『風雲の軌跡』に<私も監督業に疲れた。情熱も、感激も薄れてきた>と書いている。<いつまでも自分がやっていたのでは、若い人が伸びてこない。もう若い人の時代がきている>。ユニホームを脱ぐ決意を固めていた。=敬称略=(編集委員)

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