【内田雅也の猛虎監督列伝~<6>第6代・若林忠志】社会貢献、慈善活動…プロとして理想追い、阪神と訣別

[ 2020年4月25日 08:00 ]

少年を指導する阪神・若林忠志=若林忠晴氏所蔵=
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 若林忠志は監督(投手兼任)に復帰した1947(昭和22)年開幕前、「75勝」を宣言した。8球団17回総当たりで計119試合制。「75勝は奇跡だ」という新聞記者に「選手にプロ意識、つまり自分の持ち分に責任を持たせ、力を発揮すれば十分可能だ」と答えた。

 宣言通り、阪神は79勝37敗3分け、勝率6割8分1厘と圧倒的な力を見せつけて優勝した。5月30日に首位に立ってからは独走、2位中日に12・5ゲーム差をつけた。

 優勝決定は10月26日の巨人戦(後楽園)。若林は言った。「門限など設けなくても夜ふかしする選手はなく、精神面で苦労させられることは一度もなかった。これが優勝できた最大の理由だ」

 胴上げも祝勝会もなく、表彰式が終わると淡々と宿舎に引きあげた。当時、東京遠征の定宿は闇米が手に入る千葉・松戸の海老屋旅館だった。

 最高殊勲選手(MVP)は44年優勝時同様、若林。副賞はアヒルだった。10完封を含む26勝で防御率2・09。スタルヒンに次ぐ史上2人目の通算200勝を達成した。

 打の殊勲者は監督から選手専任に戻った藤村富美男だった。1試合を除く不動の4番で打点王。竹中半平『背番号への愛着』(あすなろ社)によると投票で<若林と同点となって議論沸騰の揚句落選し、特に彼のために一時的の敢闘賞なるものが設けられた>。

 この年、若林は「ファンが求めるホームランを出やすくしよう」と、甲子園球場にラッキーゾーンを設けた。左中間・右中間最深部は128メートルから108・5メートル20メートル近く短くなった。5月26日にお披露目となった。

 親会社・阪神電鉄は戦災で大きな痛手を被り、選手たちは一向に上がらぬ給料に不満が募っていた。若林は選手会と契約しブロマイドを作った。撮影・販売を担当したのが大阪・扇町で渡辺写真機店を営む渡辺憲央で「球場内の監督室を事務所にしてくれた」。球場出入り口でミカン箱に戸板を置き、写真を並べた。飛ぶように売れた。

 若林はただ勝つだけでは満足しなかった。ハワイで生まれ育ち、幼い頃から大リーガーの姿勢を知る。プロとしてあるべき姿を示した。ファンサービスや社会貢献・慈善活動を展開していった。その精神は今よみがえり、球団は「若林忠志賞」を設け表彰している。

 48年、「タイガース子供の会」を自費で立ち上げ、自ら代表に就いた。球団公認で事務所は大阪・梅田の阪神電鉄本社内に置かれた。機関誌「少年タイガース」を家族が球場前で配った。同会は若林退団後も存続し、2004年から「タイガース公式ファンクラブKIDS」として今に残る。

 監修・発行人となった雑誌『ボールフレンド』創刊号(48年2月発行)で<野球の発展向上のためには、どうしてもアメリカのごとく2大リーグの対立是非>と2リーグ制を主張した。

 連合国総司令部(GHQ)経済科学局長の少将ウィリアム・マーカットが「プロ野球発展に必要な2リーグ制を推進できるのはオーナーで正力松太郎、プレーヤーでボゾ(若林の愛称)、君よりいない。援助は惜しまない。どんな障害も乗り越えて実現に努力したまえ」と背中を押した。マーカットと若林はマッキンリー高時代、試合で対戦し旧知の間柄だった。

 49年は球界再編に揺れた。4月に日本野球連盟名誉総裁・正力松太郎が「2大リーグの育成」と声明を発表。新球団の加盟申請が相次いだ。

 毎日新聞社も球団設立に動いた。特命を受けた東京本社社会部長・黒崎貞治郎は大阪・北新地の割烹「甚五郎」で若林と密会し「あるのは決心と理想だ。理想的な球団をつくるにはどうしたらいいか」と口説いた。

 10月後半、戦後初の日米野球となった3Aサンフランシスコ・シールズの来日期間中に2リーグ制と毎日の勧誘は進んでいた。11月26日に2リーグ分立が決議された。

 シーズンを5位で終えた阪神は12月、巨人との帯同遠征で各地を転戦。その合間、12月14日に若林は奈良少年刑務所を訪れ講演を行った。「若林賞」と刻印した優勝盾を贈った。翌年から所内野球大会が開かれ、盾は代々引き継がれた。大会は同所閉庁前の2016年まで開かれ、盾は遺族に返還された。

 理想を追い求めた若林は毎日移籍を決断。帯同遠征最終戦の12月25日、甲子園。タテジマのユニホームにキスをして別れを告げた。=敬称略=(編集委員)

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