杉内、史上初の甲子園とプロでノーヒットノーラン 108球に隠された2つの「キーワード」

[ 2020年4月25日 06:00 ]

ノーヒットノーランを達成後、杉内(左)を祝福する阿部
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 2012年5月30日。巨人と楽天との交流戦が行われた東京ドームは一瞬の落胆後に、歓喜が訪れた。巨人・杉内俊哉投手(当時31=現2軍投手コーチ)があと1球まで迫りながら完全試合を逃し、プロ入り初のノーヒットノーランを達成。鹿児島実3年夏の甲子園でもノーヒットノーランを成し遂げており、甲子園とプロでの達成者は杉内ただ一人だ。当時の取材ノートから、快挙をひもとく。 (川手 達矢)

 偉業達成から数日後。改めて、杉内に当日の投球を振り返ってもらったことがある。見えてきたのは2つの「キーワード」だった。

 試合開始の20分前。東京ドームのブルペンで投球練習をしていた杉内の表情は暗かった。「すぐに“今日は調子良くないな”と思ったよ。荒れまくっていた」。高めに抜けたり、ベース手前でワンバウンドもした。「ここ最近でも一番悪かった」。1球もストライクゾーンに入らなかった。捕手の阿部も苦笑いする。無言の重苦しい空気に包まれていた。

 試合は約5分後に迫っていた。ロッカールームで水分を口に含みながら覚悟を決めた。「あれこれ考えてもしょうがないな、と。フォアボールでランナーをためるのだけは嫌だし、ストライクゾーン目がけてガンガン投げよう」。追い込まれた結果、導き出した答え。それが快挙に導く「開き直り」だった。

 初回。先頭・聖沢に、ど真ん中のスライダーで入った。見逃しストライク。「よし、これでいい。今日はこれでいくんだ」。試合前に心に誓った通りだった。唯一、意識したのは「どの球種でも目いっぱい腕を振ること」。そして2回。その通り力強く腕を振る左腕の思いを、より後押しする1球があった。

 1死で左打者の中村を迎えた。1―2からの5球目。127キロの外角低めスライダーだった。中村はボールと判断し、見逃した。記者席で取材していた私にもボール球に見えた。だが、判定はストライク。驚き、球審を見つめる中村に、杉内はクルリと背を向ける。いつも通りロジンを手に、平静を装った。「内心は“よし”って思った。あれは大きかった」。続く3回も左の枡田に3球連続外角スライダーを投じ、3球三振に斬っている。

 「あのへんから乗っていけた。細かいコントロールを期待できない分、開き直って大胆にいくしかなかった。あれこれ考えない分だけ、逆に(投球)フォームは良かったかもしれない。そこを外のストライクゾーンの広さが助けてくれた」

 3回を終え、無安打で7奪三振。球審の傾向を早めにつかみ、ピンチをチャンスに変えた。無安打どころか、無四死球のまま9回2死までこぎつけた。代打・中島を1―2と追い込む。楽天側の観客席からも「あと1球」コールが起きたが、3球続けてボール。四球で完全試合は消え、東京ドームは大きなため息に包まれた。それでも聖沢を見逃し三振でノーヒットノーランを達成。この打席でも外角へのスライダーを多投し、最後は無警戒の内角を直球で突いた。

 「もちろん完全試合の方が良かったけど、ノーヒットノーランでも十分うれしかった。巨人に移籍して1年目だったし、みんなが喜んでくれている顔を見て、やっとチームの一員になれたような感じだったんだよね」

 相手先発は、腰痛からの復帰戦となったエースの田中。その点でも試合前から注目度の高い投手戦だった。ソフトバンク時代は5回投げ合い、杉内が4敗で1つも勝てなかった。田中に初めて投げ勝ち、「マー君もいいピッチングをしていたから。そのリズムもいい方向につながったんだと思う」と感謝した。

 いくつかの偶然が重なり、いつしか必然が生まれた。108球に隠された真実である。

 《敗れた田中は“らしく”脱帽「杉内さんが上だった」》完全試合まであと1球の中で達成された無安打無得点試合。杉内は「もちろん完全(試合)をできれば良かったけど、勝つことが重要。落胆はなかった」と振り返った。東京最終版の1面には偉業を称えるとともに「悔しすぎるノーヒッター」という見出しが躍った。

 杉内の快投に加え、高橋由の決勝2ラン、田中の腰痛からの復帰登板と話題性もあり、1面から3枚で大展開。2失点完投も敗れた田中は「誤解されたくないけど楽しかった。いい投げ合いもできた。(高橋)由伸さんと杉内さんが自分より上だったということ」。潔いコメントに“らしさ”が詰まっていた。

 《阿部、ラストの四球に苦笑いも…「3球勝負できる切れがあった」》杉内とバッテリーを組んだ阿部は9回2死でマウンドに向かい、2学年下の左腕に声を掛けた。結果は四球となり、試合後は苦笑い。「基本的に球数が多くなる投手だが3球勝負できるボールの切れがあった」と振り返った。0―0の7回に田中から決勝2ランを左中間に放った高橋由は珍しく何度も右拳をつくり「今年一番と言っていい当たりが最高の場面で出た。(杉内のためにも)何とかしたかったし、うれしい」と一緒にお立ち台に上がった。

 《高校時代は最愛の母の誕生日祝い》杉内にはもう一つ、忘れることができないノーヒットノーランがある。それは98年8月11日。鹿児島実のエースとして出場した3年夏の甲子園、八戸工大一(青森)との1回戦で偉業を成し遂げた。

 「あの日は母の(39歳の)誕生日。試合前に電話して、“勝ってくる”って約束してたからね。たくさん苦労もかけてきたから、うれしかった」

 杉内が生まれる前に両親は離婚。母・真美子さんは苦しい家計をやりくりし、女手一つで育ててきた。甲子園で観戦していた母は偉業達成後に多くの報道陣から取材を受け「あんなに大勢の方が来る取材は初めてで緊張したわ」と息子に話したという。

 高校時代の杉内の宝刀は、縦に大きく割れるカーブ。「真っすぐも130キロ後半くらいで、カーブが生命線だった」。16三振を奪ったあの日は、そのうち10個をカーブで奪っている。プロ入り後のノーヒットノーラン達成時に決め球となったスライダーとチェンジアップは、当時まだ持ち球ですらなかった。

 ▼データ 杉内(巨)のノーヒットノーランはプロ野球75人目、86度目。許した走者は9回2死からの中島(四球)だけで、あと1人で完全試合を逃してのノーヒットノーランは現在でも史上唯一だ。なお、その後の球界では、同年10月に西(オ=現阪神)、13年に山井(中)、14年に岸(西)、18年に山口俊(巨)、19年に千賀(ソ)、大野雄(中)がノーヒットノーランをマーク。また、CSでは18年に菅野(巨)も達成している。

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