【球春ヒストリー(3)】2002年・大体大浪商 23年ぶり出場で強豪から開幕星

[ 2020年3月22日 08:30 ]

02年センバツ、23年ぶりの勝利を飾り大喜びの大体大浪商ナイン
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 2002年の第74回大会は、オールドファンにとってはたまらない「NAMISHO」の復活勝利で幕を開けた。春夏の甲子園大会で計4度の優勝を誇る大体大浪商が、牛島和彦―香川伸行のバッテリーで準優勝した1979年以来、23年ぶりに出場。開幕戦で出場校中No・1のチーム打率を誇った二松学舎大付相手に競り勝つ、できすぎたシナリオに当時コーチで現在は野球部副部長を務める下条真佐実氏(46)は「なぜ勝てたのか…。野球の神様がついていたんですかね」と笑った。

 「(強かった)昔みたいにタレント軍団だったわけでもない。一つ前の世代はチームとしてかなり力がありましたけど。ただ、主力がこつこつと地道に努力する選手が多かったことで他の選手が引っ張られた部分はあった」

 怪童と呼ばれ61年夏の全国制覇の原動力となった尾崎行雄(元東映)ら数多くのプロ野球選手を輩出したが、OBで当時監督だった金藤晃裕氏(2014年6月死去)の「浪商でやりたいと思う選手でやる」という意向もあり強引な勧誘はしなかった。4失点完投した2年生エース村田透(現日本ハム)は地元の中学出身で「浪商の凄さ」を知らずに入学。先発9人中、3人が軟式野球出身で、まさにたたき上げだった。

 01年夏は好投手と評判だった高野圭太を擁したが大阪大会5回戦で上宮太子に5―12で7回コールド負け。新チームは翌日から始動したが「集合時間の2時間前から練習を始めていた。強かった先輩でも勝てないなら…」と危機感を抱いての船出だった。

 OBでもある下条氏がコーチに就任したのが00年4月。選抜出場した3年生が“指導1期生”だった。最初に始めたのは「道徳」。靴をそろえるなど整理整頓から始め、学校最寄り駅周辺のごみ拾い。大会会場でも実施し「浪商が来ればきれいになる」と言われるほどに徳を積み重ねたことも勝因の一つだったかもしれない。

 以後、10、15年と夏の大阪大会決勝まで進んだが、復活と言われた春を最後に甲子園から遠ざかる。「金藤さんも“おこがましい”と言っていたように本当に強くなってこそです」。真の復活には、まだ時間がかかりそうだ。

 ▼02年選抜の大体大浪商 01年秋の大阪大会で準優勝し、続く近畿大会8強入り。23年ぶり出場となった02年選抜では1回戦でチーム打率・408だった強打の二松学舎大付と対戦。2―2の7回、2四球で2死一、二塁とし下埜日出人が右前に勝ち越し適時打。さらに相手暴投で加点した。9回には2死二塁から4番松井一史の右中間への適時三塁打でリードを拡大。2年生エース村田透が9回に2ランを浴びたが8安打4失点でリードを守り切った。2回戦の鳴門工戦は8回に川村昭太の適時打で1点差に迫ったが届かず。3失点完投した村田を援護できず2―3で敗れた。

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2020年3月22日のニュース