内田雅也が行く 猛虎の地(16)安芸市営球場 情熱結実 猛虎が町にとけこんだ「タイガータウン」

[ 2019年12月24日 08:00 ]

シート打撃を行う阪神=福留俊彦さん提供=
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【(16)安芸市営球場】

 阪神一行がキャンプ地の高知県安芸市に入ったのは1965(昭和40)年2月1日だった。総勢77人が2組に分かれ、空路高知入りした。安芸市営球場のふもと、土佐電鉄・安芸駅前の広場で開かれた歓迎会では市民が歓声で出迎えた。

 阪神球団社長・戸沢一隆と握手した安芸市長・岩崎健夫は「これで本当のタイガータウンになれた」と感慨深く話した。当時のスポニチ本紙(大阪本社発行版)にある。安芸市は「タイガータウン」を名乗り、63年から阪神にキャンプの誘致活動を行っていた。

 元高知商の名監督で、当時安芸高監督だった溝渕峯男を通じ、高知市営球場で投手陣だけのキャンプを張っていた阪神の監督・藤本定義に打診。阪神側は本格的な球場を条件とした。

 妙見山の中腹、安芸市西浜字ケイコヤという丘陵地に球場を建設することにした。費用を抑えるため、山の造成は、自衛隊に交渉し、「訓練」という名目で請け負ってもらった。今も球場敷地内に自衛隊造成を記念した石碑が建っている。

 市民からは「何もない田舎町でもうかるのは米屋とタクシー会社だけ」という批判もあった。だが岩崎は「もうからんでいい。安芸の神祭が一回増えたと思えばいい」と名言を吐いた。「若い世代は都会に出て行く。やがて安芸は老朽化してしまう。本腰を入れて市を再興したい」。戦後47年は3万2400人いた人口が65年当時で2万6600人に減っていた。

 球場の北と西は山で寒風をさえぎることができる。グラウンドの方角は甲子園球場と同じ浜風が右翼から左翼に吹くように定めた。右翼後方の眼下に太平洋が広がる。太陽光が海上できらめいて打者がボールが見づらいと聞けばフェンスを高くした。難題の宿泊施設も旅館4軒に分宿。ジーン・バッキー、チコ・フェルナンデス、臨時コーチのチャーリー・ゲリンジャー夫妻には市役所裏に2階建てプレハブ住宅を建てた。水洗トイレを備え、コックを雇い洋風料理を出した。「バッキー・ハウス」と呼ばれた。

 事前に視察訪問を繰り返した阪神球団総務課長・奥井成一は市の情熱に心を打たれた。安芸キャンプが本決まりとなった際、選手たちに伝えた。

 「町にはパチンコ屋が2軒、映画館が2軒あるだけや」と正直に伝えた。「悪いことから話さないと現実を見た時、不満が出るでしょう」。だが選手たちからは「部屋が古い」程度しか不満は出なかった。地元の土佐赤牛をうまいと言って喜び、神戸牛を差し入れたオーナー・野田誠三も喜んで食べた。

 安芸に阪神がやって来た65年当時、熱心に写真を撮っていた市民がいた。当時25歳、郵便局に勤めていた福留俊彦(80)で、今は妻と安芸市内で喫茶店を営む。

 「町を歩けば、選手に出会った。サインをもらえた。タイガースは町にとけ込んでいました。元は巨人ファンだった私も親しみがわいてきた。毎日見に行くうちに、記念に写真におさめておこうと思いましてね」撮った写真は貴重で、何枚かは市の資料となり、今も球場内に掲示されている。

 球場建設の現場責任者だった小松長次郎はグラウンドキーパーとなり、スクーターに耕運器具を取り付け、整備を進めた。地元の婦人たちが石ころ拾いを手伝った。

 阪神が来た65年に安芸市職員となり、85年に体育係長としてキャンプ担当となった森田修一(75)は阪神との歴史を知る。在任中にスタンド増設、ドーム建設、本部席改築……と施設を充実させた。今もキャンプ中は連日、球場に通う。

 1軍は2003年からキャンプ本拠地を沖縄・宜野座村に移した。今では2軍が春季、1軍は秋季だけ。宿泊するホテルは市外だ。市の人口は今年の調査で約1万7200人まで減った。「寂しいと嘆いていても仕方ない。阪神ファンを取り込んだり、他の歴史・文化財産と合わせてPRするなどしていかんとね」

 町行く選手に目を輝かせた子どもらは大人に、若者たちは老人となった。思い出は尽きず、あの活気を再び……と願っている。=敬称略=(編集委員)

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