【内田雅也の追球】疼きと、夢と幸せと――阪神、公式戦再開への思い

[ 2019年6月29日 09:30 ]

甲子園でロングティーを行う糸井(撮影・大森 寛明)
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 映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場する、実在した選手、アーチー“ムーンライト”グラハムには大リーグで「試合1、打席0」という成績が残っている。

 きょうがその出場した試合の日だ。1905年6月29日、ブルックリン・スーパーバス(現ロサンゼルス・ドジャース)の本拠地ワシントンパーク。ニューヨーク(現サンフランシスコ)・ジャイアンツの右翼手として11―0と大量リードした9回裏、守備に就いた。打球は飛んで来ず、試合は終わった。

 「とうとうやった、と何度も自分に言い聞かせた」と、その時の感激が原作のW・P・キンセラの小説『シューレス・ジョー』(文春文庫)にある。「わたしはジャイアンツでプレーしたことがある、と死ぬまで言い続ける資格ができたんだと」

 だが、大リーグでの出場はそれっきりだった。心に痛みが残った。「一度ぐらいはバッターボックスからピッチャーをにらみつけたかった」「眩(まぶ)しいほどの青空を見上げて目を細め、ジャスト・ミートした瞬間のぞくぞくするような感覚を腕に感じることがね」医師となったグラハムの生涯の望みとなった。

 同じように、「試合1、打席0」の選手が歴代の阪神で6人いる。うち2人は投手、2人は偵察要員の先発で実際はプレーしていない。

 残る2人は代走だけの出場だった。現在、球団本部部長の坂孝一は1991年4月14日、ヤクルト戦(甲子園)に代走で出て、同点の本塁に還った。才田修は1970年、北陽(現関大北陽)選抜準優勝の3番打者で、71、72年とジュニアオールスター(今のフレッシュオールスター)に選ばれるなど、期待は高かったが、1軍は71年の代走だけに終わった。2人とも高評価だった守備にも就いていない。

 グラハム同様、打席への思いはあったろう。いや、まだ1軍の試合に出られただけで幸せなのかもしれない。

 昨年末12月28日付(大阪本社発行紙面)の『猛虎の地リターンズ』最終回で書いたが、1935(昭和10)年の球団創設以来、阪神に在籍した選手は大台1000人に乗った。今年の新人15人を加え1012人に上る。

 一方、阪神メディアガイドには近年「1軍公式戦不出場選手」の名簿が載るようになった。昨年までで数えると227人だった。

 28日、阪神の選手たちが練習した甲子園は梅雨の晴れ間で「眩しいほどの青空」ものぞいた。

 リーグ戦再開まで試合のない日々が5日間もあった。オールスター・ブレークの4日間よりも長いシーズン中の空白期間だった。猛虎たちは恐らく野球の虫が疼(うず)いていよう。夢を描き、幸せをかみしめて、プレーしようじゃないか。 =敬称略= (編集委員)

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2019年6月29日のニュース