内田雅也が行く 猛虎の地<25>=最終回 阪神甲子園球場

[ 2018年12月28日 10:00 ]

千の星たちの「ふるさと」

2015年の初日の出を迎える甲子園球場(2015年1月1日午前7時25分撮影)
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 最近は聞かれなくなったが、甲子園球場には「妖怪がすんでいる」という話が伝わっている。初めは1935(昭和10)年ごろというから、タイガース創設期である。

 夜ふけになると宿直者が「コツ、コツ、コツ……」という音で目が覚める。バットを折るような音だという。グラウンドに出ると、あたりは一面の闇。人の気配はない。翌日、別の宿直者も同じ音を聞く――。甲子園球場の歴史に詳しい元毎日新聞記者、玉置通夫の『一億八千万人の甲子園』(オール出版)にある。

 音は「甲子園で敗退した球児たちが夢よもう一度と、夜になると練習にきているのでは」で落ち着いたという。いや、草創期のタイガースの選手なのかもしれない。

 そんな話がまことしやかに伝わるほど、甲子園には多くの人びとの思いが詰まっている。

 映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場する、実在した選手、アーチー“ムーンライト”グラハムは大リーグで「試合1、打席0」という外野手だった。1905年、ニューヨーク(現サンフランシスコ)・ジャイアンツで大リーグ昇格。6月29日の試合で9回表、守備についた。打球は飛んで来ず、試合は終わった。それが大リーグ最後の試合だった。

 原作のW・P・キンセラ『シューレス・ジョー』(文春文庫)に初出場した時の感激が語られている。「とうとうやった、と何度も自分にいいきかせた」「わたしはニューヨーク・ジャイアンツでプレーしたことがある、と死ぬまでいいつづける資格ができた」

 ただし、グラハムの心には痛みも残った。「一度ぐらいはバッター・ボックスからピッチャーをにらみつけたかったね」「ジャスト・ミートした瞬間のぞくぞくするような感覚を腕に感じることが」望みだった。

 同じ「試合1、打席0」の選手が阪神にも6人いる。たとえば現在、球団本部部長の坂孝一は1991年4月14日、ヤクルト戦(甲子園)に代走で出て同点の本塁に還った。また才田修は70年、北陽(現関大北陽)選抜準優勝の3番打者で湯口敏彦(同年巨人ドラフト1位)から本塁打も放った。71、72年と2軍のジュニアオールスターに選ばれるなど期待は高かったが、1軍出場は71年の代走だけに終わった。坂も才田も打席はなく、評価が高かった守備の機会もなかった。

 彼らもグラハム同様、晴れ舞台への思いは募ることだろう。タイガースの本拠地・甲子園球場はそんな思いのこもった場所なのである。

 『猛虎の地』と題し、阪神にゆかりのあった場所の昔と今を追う企画で連載してきた。2010年と今年で59カ所を回った。あの日あの時あの場所はいま――という後日談をからめた今昔物語であり、いわゆる「聖地巡礼」でもあった。

 35年12月10日の球団創設から丸83年。タイガースに在籍した選手(外国人、育成選手を含む)は今年、1000人の大台を超えた。昨年まで997人で今年入団した選手が15人。誰が1000番目だったかという話はさて置き、1012人を数える。

 彼らは紛れもなく選ばれし者である。最高峰のプロ野球、それも伝統のタテジマのユニホームをまとったスターだった。中島みゆきが歌う『地上の星』のように「見送られることもなく」消えていったかもしれない。しかし、グラハムのように「死ぬまで言い続ける」と誇れる星たちである。

 彼らにはそれぞれ思い出の場所がある。つまり、千の「地」がある。ただし、猛虎たちにとって、甲子園に勝る「猛虎の地」はない。

 元旦に甲子園球場を訪ね、初日の出を撮影するようになって数年がたつ。かつて「東アルプス」と呼ばれたように、三塁側アルプス席から上る光は何とも神々しい。

 高校野球の役員を長く務めた長浜俊三は大会中、甲子園球場に寝泊まりしていた。朝日の美しさを<黒い闇のヴェールを脱いで浮かび上がるさまはいかにも甲子園球場らしい>として<忘れられない>と書いている。スポニチ本紙53年4月1日付、『陽(ひ)の当たらない場所』と自ら題したコラムで、陰で奮闘した選手、支えた裏方などを取り上げていた。

 日はまた昇る。永遠を思う。長い間、そしてこれからも永く、甲子園は変わらずにある。猛虎たちの「心のふるさと」としてある。=敬称略=(スポニチ編集委員)

=終わり=

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