巨人・沢村再び 単独1位指名に大粒の涙

[ 2010年10月29日 06:00 ]

ドラフトで巨人の単独1位指名を受け、涙を流して喜ぶ中大・沢村

 【巨人ドラフト1位】巨人から指名を受けた際に、沢村拓一投手(中大)は全く表情を変えなかった。そのまま12球団目のソフトバンクへ。自分の名前は1球団からしか呼ばれなかった。単独入札。157キロ右腕の目からは、自然と大粒の涙がこぼれた。アマ球界No・1の剛腕が、重圧から解き放たれた瞬間だった。

【9月25日】1936年(昭11) 復活を期した沢村栄治 ノーヒットノーラン第1号

【12月9日】1936年(昭11) 沢村栄治VS景浦将、初の「王座決定戦3番勝負」

【12月2日】1944年(昭19) 不世出の大投手沢村栄治、台湾沖で戦死

 「本当に光栄に思いますし、率直に、心からうれしいです。大学に入り、OBの阿部さん、亀井さんが活躍する姿を見て、同じチームで、同じ土俵に立ってプレーをしたいと思っていた」
 相思相愛だった。少年時代から実家のある栃木県から東京ドームに足しげく通い、巨人戦をまぶたに焼き付けてきた。ドラフトが近づき、関係者を通じて巨人以外の指名なら入団しないという意向を各球団に伝えてまで熱意を示したという。「不安はあったが、自分の望み通りになりました。対戦したい打者?それよりも阿部さんのミットを目がけて、自分のボールを投げ込みたい」。セの並みいる強打者よりも、先輩捕手とバッテリーを組む自分の姿を想像した。

 夢はかなえた。しかしこれがゴールではない。「まだスタートに立っただけ。とにかく2ケタ勝てるような投手になれるように、もっと練習したい」。早くもプロとしての自覚を語った沢村の目には、東京ドームのマウンドで躍動する自分の姿が映っていた。

 ◆沢村栄治 草創期のプロ野球を代表する伝説の投手。1934年には17歳で日米野球のため編成された日本選抜に選出。同年11月20日に静岡草薙球場で行われた米国選抜との対戦では、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを三振に仕留めるなど好投した。36~43年に巨人でプレーし、通算63勝22敗、防御率1・74。第2次世界大戦で再度兵役に服し、44年12月2日に台湾沖で雷撃を受けて戦死した。享年27。背番号14は巨人の永久欠番で、59年に野球殿堂入りを果たしている。

続きを表示

2010年10月29日のニュース