ボール握り「勝ちゲーム」の表情で…大沢親分、逝く

[ 2010年10月8日 06:00 ]

04年に立大VS明大でトレードマークの着物姿で始球式を行った大沢氏

 日本ハムなどで監督を務めた大沢啓二(おおさわ・けいじ)氏が7日午前7時25分、胆のうがんのため都内の病院で死去した。78歳だった。神奈川県出身。大沢氏は立大から56年に南海(現ソフトバンク)に入団、外野手として活躍。現役引退後は日本ハムで監督、球団常務を歴任し、面倒見がよく「親分」の愛称で慕われた。日本プロ野球OBクラブ理事長も務めた球界のご意見番の突然の訃報に、関係者からは惜しむ声が相次いだ。

 親分は最期まで親分だった。がんとの戦い。「最後まで親分を通す」と痛みと闘い続けた。入院先の都内の病院で前夜までボールを握り、この日朝に容体が急変して意識が薄れても「ボール、ボール」と繰り返した。由紀子夫人ら家族にみとられて逝った希代の野球人の最期は、マネジャーの久保文雄氏(48)によると「戦い終わった勝ちゲームのときのような表情だった」という。
 病魔が見つかったのは昨年10月。末期の胆のうがんだった。手術できる状態ではなく「周囲には気を使わせたくない」という本人の強い希望から病名は伏せられてきた。何事もないように振る舞い、球界の長老として張本勲氏(本紙評論家)と「あっぱれ!」「喝!」で人気となったTBS「サンデーモーニング」でもベランメエ調は変わらなかった。
 しかし、体調は次第に悪化。8月27日に都市対抗開会式で行われた立大時代の同級生、故古田昌幸氏の野球殿堂入り表彰の際に「腰が痛てえ」と椅子に座り込んだ。9月19日の「サンデー」出演が最後で、23日に「ちょっと病院に行く」と言ったまま都内の病院に入院し、1週間ほど前から会話ができなくなった。それでも今月2日夜「あした6時に起こせ。番組に行くぞ」と酸素マスクをつけたままベッドの上に立ち上がったという。
 高校3年夏の大会で審判へ暴力行為を働いた逸話を持ち、立大でもプロ入り後も闘志あふれるプレーで知られた。一方で打者の傾向に合わせて守備位置を変える頭脳的な外野守備で59年南海の日本一に貢献。涙の御堂筋パレードの陰のMVPとなって、当時の鶴岡監督から絶賛された。76年から日本ハムの監督を務め81年にはリーグ優勝を果たした。監督退場7回は楽天・ブラウン前監督に抜かれるまでプロ野球記録。その闘志の半面、うそをつけない親分肌の性格でチームの枠を超えて選手の面倒を見てきた。
 トレードマークは黒いサングラス。カラオケでは北島三郎の「歩」を好んで歌い、「おらあ、成って金になる歩が好きなんだ」。いつしか付いた愛称が「親分」。キャンプ中、自宅に空き巣が入ると「泥棒さんよ」と題した手紙を公開して窃盗犯に訴えかけたこともある。94年の最終戦後には、ファンに土下座して成績不振をわびた。和服が似合い、歯に衣(きぬ)を着せぬ評論はファンの好感を得て親しまれた。
 野球を、野球人を愛して逝った大沢親分。もう「あっぱれ」も「喝」も聞くことはできない。

 ◆大沢 啓二(おおさわ けいじ=本名昭=あきら)1932年(昭7)3月14日、神奈川県生まれ。神奈川商工―立大を経て、56年に南海(現ソフトバンク)入団。南海から東京(現ロッテ)に移籍した65年に現役引退。通算成績は打率・241、17本塁打、191打点。東京でコーチ、2軍監督を経て71年途中から監督に就任。76年から日本ハムの指揮を執り、81年にリーグ優勝。84年にフロント入りしたが、シーズン途中で監督復帰。85年から球団常務を務めた後、93年から2年間指揮を執った。その後は日本プロ野球OBクラブの理事長も務めた。
 
 ◆大沢啓二氏葬儀日程
【通夜】10月13日(水)午後6時
【葬儀・告別式】10月14日(木)正午
【場所】増上寺光摂殿=東京都港区芝公園4の7の35=(電)03(3432)1431
【喪主】長男康人(やすと)さん

 

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