1871年に侍VS米で日本野球は始まった 歴史変える新「起源」説 NPB伊藤修久氏が米国学会で発表

[ 2024年4月23日 06:00 ]

米国野球学会で新説を発表したNPB・伊藤氏
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 米ニューヨーク州クーパーズタウンの米野球殿堂博物館で19日(日本時間20日)に開催された米国野球学会の19世紀野球部会で、日本野球の起源の新説が発表された。研究発表を行ったのは日本野球機構(NPB)の伊藤修久氏(60)。定説では1872年に米国人教師のホーレス・ウィルソンが日本の学生に野球を教えたのが日本野球の始まりとされているが、その1年前の1871年に大阪で米国人と日本人の野球の試合が行われたという。伊藤氏が7年間かけて調査した新説に迫った。(取材・構成 秋村 誠人)

 2日間で15人が研究発表を行った今回の19世紀野球部会。30分間の持ち時間だったが、発表後は矢継ぎ早の質問が飛んだという。「参加者の日本野球への興味の強さを感じました」と伊藤氏。それほど新説はインパクトがあった。

 全ての始まりは、NPB事務局に50年以上前に届いていた1通の匿名の投書だった。倉庫を整理しているときに発見。伊藤氏は衝撃を受けたという。

 明治初期に米国海軍の水兵が、大阪の外国人居留地で日本人に野球を教え、試合をした――。投書にはそう書かれていた。時期を考えると、これまでの定説よりも前に日本人が野球の試合をした可能性がある。外国人教師のホーレス・ウィルソンが日本の学生に野球を教えたのは1872年。これが野球伝来の起源とされていたが、引き寄せられるように調査を始め、興味深いことがいろいろ分かり「これはもう投書の内容が作り話ではないな」と確信に近いものを得た。

 まず調べたのは場所だった。明治初期に大阪にあった川口居留地。現地で聞き込みを行い、当時の地図を見ると野球場が入るほどの大きさの空き地が波止場前にあった。さらに米ワシントンにある公文書博物館へ足を運び、明治初期の1869年から72年にかけて日本に入港した米国艦隊全ての航海日誌などを読み込んだ。その結果、巡洋艦コロラド号だけが71年1月に神戸に2週間停泊。1月16、17日の2日間、艦長と水兵らが大阪へ海路で移動し、大阪城内に置かれていた大阪鎮台を訪問したことを見つけた。「大阪の海の玄関口は川口居留地の港なので、試合をしたならこのタイミングしかない」とした。

 では、相手の日本人たちは何者か。投書の人物が社会人野球創成期の選手だったことから関係者をたどり、投書内容の大本となったのは、川口居留地を警備していた日本陸軍の大阪鎮台の兵士の一人だったことに行き着いた。つまりコロラド号の水兵らの対戦相手は大阪鎮台の兵士らで、時期は1871年1月17日。7年間にわたった日米での調査で投書の裏付けを積み重ねて得た結論を持って、今回の研究発表に至った。

 当時の鎮台の兵士は旧藩兵が主で、いわゆるラストサムライ。今の侍ジャパンのルーツとも言える。何とも奥深い日本野球の起源。「ウィルソン説には、野球を教わった学生が日本に野球を広めたというストーリー性がある。今後はコロラド号の水兵の遺族を探すとともに、大阪鎮台兵のその後を追いかけてみたい」。伊藤氏はそう結んだ。

 ◇伊藤 修久(いとう・のぶひさ)1963年(昭38)7月9日生まれ、大阪府出身の60歳。米オハイオ大学院スポーツ経営学コース修了後、91年11月に日本野球機構(NPB)事務局入り。入局後32年間にわたりポスティング制度など大リーグ機構との交渉を担当。法規部長としても野球協約の管理運営や選手会との交渉も担当した。22年8月からNPB初のヒストリアンに就任。プロ野球創成期からの制度史などをまとめている。

 ▼日本ハム、栗山英樹チーフ・ベースボール・オフィサー(前侍ジャパン監督)日本の野球は歴史の積み重ねがあって今がある。歴史を大切にし、先人たちの思いや魂をつないでいくのは凄く大事なこと。今回の伊藤さんのように、歴史を今の時代につないでくれる人たちがいたからこそ世界一になれたと思っている。

 ▽コロラド号 1866年のジェネラル・シャーマン号事件を発端に70年代前半にかけて米朝間が交戦状態となり、米艦隊は朝鮮半島へ向かう際に日本の港に寄港。巡洋艦のコロラド号もその艦隊の一隻だった。71年1月に神戸、同10月は横浜に停泊。横浜で水兵チームと横浜居留地の外国人チームが同居留地(現在の横浜スタジアム近く)で野球の試合を行った。

 ▽大阪鎮台 明治初期にあった日本陸軍部隊の一つ。当時、鎮台は全国に4~6つあったとされ、大阪鎮台は大阪城内に本営が置かれていた。発足当初は徴兵制がなく兵士は旧藩兵から採用。西日本最大の軍事機構の中枢部で、77年の西南戦争では軍事拠点として重要な役割を果たした。1888年に「師団」と改称された。

 ▽川口居留地 1868年から1899年まで、現在の大阪市西区川口1、2丁目の北部に設けられていた外国人居留地。安治川と木津川の分岐点に位置し、総面積は約2万5600平方メートル。当時の地図には英国領事館横に大きな空き地が記されている。

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