【何かが起こるセンバツ記念大会(7)】剛腕松坂圧巻V~平成の怪物に挑んだ10人の“未来のプロ戦士”

[ 2023年3月21日 08:00 ]

横浜の優勝を報じる93年4月9日付スポニチ紙面
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 熱戦が繰り広げられている第95回選抜高校野球大会。今大会は5年ごとに開催される「記念大会」。一般出場枠が4枠増え36校出場の大会となる。過去の記念大会では後にプロ野球で活躍するレジェンドたちが躍動し、史上初の完全試合が達成されるなど数々のドラマが演じられてきた。「何かが起こるセンバツ記念大会」第7回は1998年の横浜・松坂大輔。

~20世紀最後の記念大会でベールを脱いだ平成の怪物~

 1998年の第70回選抜高校野球記念大会。主役は神奈川・横浜高のエース松坂大輔だった。早くから超高校級と注目されながらあの江川卓(作新学院=元巨人)と同じく甲子園デビューはこの3年生の春だった。3月28日、大会3日目の第1試合。聖地のマウンドに立つと150キロの剛球を投じた。野球少年の面影を残した17歳の凄さはあっという間にスタンドから全国に広まっていった。「平成の怪物」が世に出た瞬間だった。

 決勝まで5試合すべて完投。45回で奪三振は43。防御率0・80の数字を残した。春の頂きに駆け上がった怪物だが、大旗をつかむまではハイレベルといわれた近畿勢と4試合戦うなど緊迫した試合の連続。後にプロ野球で同じ舞台に立つ実力派球児10人(横浜戦出場者のみ)の挑戦をことごとく退けてつかんだ栄光でもあった。

~“史上最速”150キロ剛速球 打ち返した球児がいた~

 【2回戦 報徳学園戦】桜はまだ三分咲き。甲子園には肌寒い風が吹いていた。ともに春夏1度ずつの優勝(当時)を誇る強豪の対戦だった。ネット裏には12球団のスカウトが集まっていた。熱い視線の先に松坂がいた。初回先頭の鳥居口への初球は144キロ。カウント2―2から空振り三振。この回を無安打無失点で滑り出すと2回1死、報徳の5番<(1)鞘師智也>への4球目。松坂の指を離れた剛速球がうなりをあげる。巨人スカウトが手にしているスピードガンのデジタル表示は「150」。「スピードガンが定着する1980年以降」との“但し書き”がつくとはいえ高校球児が甲子園で150キロの大台を突破したのは初めて。高校野球史に刻まれる1球となった。だが、松坂はこの球を見事に中前へはじき返されている。打った鞘師は東海大を経て2002年広島に7巡目指名されるスラッガー。プロ注目の外野手だった。松坂はこの一打で前年秋、近畿大会準優勝校の底力を感じていた。それでも横浜は強かった。打線が報徳のエース松村充弘を7回途中でKO。2番手で登板した<(2)南竜介>にも2安打を浴びせて7回までに6得点。松坂を援護した。報徳は8回から04年に2巡目でオリックスに入団、1年目7勝を挙げる<(3)光原逸裕>が登板、2回を無失点で切り抜けている。9回、松坂は鞘師に適時右前打を打たれるなど2点を失ったが、最後は大角健二を二ゴロに打ち取りゲームセット。3人の“未来のプロ戦士”を打ち破って初めての校歌を聴く新怪物の目は「紫紺の頂」だけを見ていた。

~松坂「こいつはミスしたらやられる」村田修一と激突~

 【3回戦 東福岡戦】4月3日の3回戦、松坂を難敵が待ち受けていた。1回表、先頭打者として打席に入ってきたのは翌99年ドラフトで4球団競合の末、日本ハムに2位指名される<(4)田中賢介>だった。まだ2年生ながら俊足好打、実力は折り紙付きだった。松坂は田中に中前打を浴びる。送りバントで1死二塁。3番は02年横浜(現DeNA)に自由枠で入団。07、08年に本塁打王のタイトルを獲得する<(5)村田修一>。エースで主砲。東福岡の大黒柱だった。松坂は村田から危険な匂いを嗅ぎ取っていた。「センバツの時に違うな、と思ったのは村田。こいつはスイングが違う。他の選手と振りの速さが全然違う。こいつだけはミスしたらいかれる、そういう感じでしたね」(2013年スポニチアーカイブスでの回想)この第1打席は三振。続く4番<(6)大野隆治>も02年ドラフト5位でダイエー(現ソフトバンク)に指名される強打の捕手。遊ゴロに打ち取って初回を0に抑えた。プロ注目の大砲コンビとの対決に神経をすり減らしながらも村田、大野を8打数ノーヒット。0―0で迎えた6回には松坂自ら「投手・村田」を打ち崩し左翼フェンス上部の金網を直撃する先制二塁打。13奪三振で甲子園初完封を飾った。

 【準々決勝 郡山戦】4強をかけて戦ったのは前年秋の近畿大会覇者である郡山(奈良)エースの竹村和泰との投げ合いが注目された。松坂はこの試合以降、3連投になることを意識したのか変化球中心の投球。7奪三振ながら、5安打完封で準決勝進出を決めた。

~3回までノーヒット 横綱対決 緊迫の121分~

 【準決勝 PL学園】松坂にとってPLは特別なチームだった。清原和博ら(元巨人)が3年生で優勝した1985年はまだ5歳だったが、立浪和義(元中日)らが春夏連覇を成し遂げた87年は小学生。物心ついたころからPLは高校野球の象徴だった。前年秋の近畿大会は8強止まりだったが、伝統の底力を誇る「最強PL」には畏怖の念を抱いていた。

 1回裏、先頭打者は翌99年横浜にドラフト1位指名される<(7)田中一徳>2年生ながらPLのリードオフマンに抜擢されているクセ者。出塁させればやっかいな存在になる。田中はどうにか二ゴロに打ち取ったが、続いて打席に迎えたのは<(8)平石洋介>。04年ドラフトで楽天から7巡目指名を受けた外野手。後に松坂世代初の監督となる。PLの精神的支柱でもある主将を遊ゴロに退けた。3番は<(9)大西宏明>02年大阪近鉄から7位指名を受ける強打者も二飛に打ち取った。立ち上がりから3人立て続けに“プロ注目の選手”との対戦。これでこそPL、松坂は厳しい戦いを覚悟した。PLにも負けられない事情があった。桑田真澄(元巨人)、清原和博(元西武など)らを育てた名伯楽・中村順司監督の勇退が内定。同監督は準々決勝まで甲子園歴代最多の通算58勝(当時)。V候補・横浜を撃破、決勝も制して60勝まで記録を伸ばして胴上げで送り出すのがPLナインの願いだった。東西横綱ががっぷり組み合い5回まで0―0の展開。6回、先に点を失ったのは松坂だった。1死一塁から3打席目となる田中一徳の当たりは高く弾んだ。松坂が捕球するがどこにも投げられない。平石のセーフティー気味のバントは小飛球となり2死一、二塁。続く大西の打球が中前へ抜ける。中堅・加藤重之が前進守備を敷いていたこともあり、二塁走者は還れない。2死満塁となって打席は4番・古畑和彦。初球、142キロ直球を三塁線に痛打された。横浜にとっては重い2点がスコアボードに記録された。

 横浜は8回1死二、三塁のチャンスを作る。打席は4番・松坂。4球目、138キロ直球を叩くが平凡な三ゴロ。三走・加藤がホームへ突っ込んだ。タイミングは完全にアウトと思われたが、三塁手・古畑の送球が加藤の左肩を直撃。ボールがファウルグラウンドを転々とする間に、二走の松本勉までがホームを駆け抜け同点。松坂は一塁ベースで一瞬、口元を緩めた。9回には無死一、三塁からスクイズで決勝点をもぎとった。もう追いつかせない。決め球は133キロの高速スライダー。最後の打者・倉本一博を見逃し三振に仕留め第45回記念大会以来、25年年ぶりのセンバツVへ王手をかけた。準決勝まで9人の“未来のプロ戦士”たちの挑戦を退けていた松坂。決勝の大舞台に西日本最強の投手が待ち受けていた。

~最後の難関は“プロ新人王”の本格派右腕~

 【決勝 関大一戦】1メートル81、均整のとれた体から140キロ台前半のキレのいい直球を投げる本格派。関大一(大阪)のエース<(10)久保康友>は、松坂とともに大会屈指の右腕としてプロから注目されていた。前年秋の近畿大会で智弁学園(奈良)を完封し8強入り。準々決勝では0―1で京都西に惜敗するも安定した投球が高く評価され関西甲種商時代の1929年以来、69年ぶりのセンバツを引き寄せている。東西エース同士の真っ向対決。松坂は不安を抱えていた。疲労が限界に達し、円陣を組んだ際に座れないほどの腰痛を抱えていた。小山良男捕手のサイン通り、制球重視の投球で関大一打線をかわした。打線の援護もあって3―0で迎えた9回裏、最後の打者をこの試合MAXとなる145キロ直球で空振り三振。たった一人で5試合、618球を投げ切った。久保は6年後の2004年ドラフトでロッテに自由獲得枠で入団。翌05年新人王を獲得する。10人目の“未来のプロ戦士”久保を蹴散らして紫紺の大旗をつかみとった松坂。4カ月後の夏の甲子園でも鹿児島実の杉内俊哉(2001年ドラフトでダイエー3位)ら“未来のプロ戦士”を撃破。春夏連覇の偉業を成し遂げることになる。
(構成 浅古正則)

※学校名、選手名、役職などは当時。敬称略

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