追悼連載~「コービー激動の41年」その62 大記録樹立に貢献した面々

[ 2020年4月18日 08:00 ]

「100」と書かれた紙を持たされたチェンバレン(AP)
Photo By スポニチ

 1962年3月2日。ウォリアーズのウィルト・チェンバレンがニックス戦で100得点を記録したとき、最後の場面の詳細がわかったのは実況中継を聴いていたラジオのリスナーがオープンリールのテープレコーダーに録音し、それを何度も巻き戻して再生させて文字にしたからだった。

 58年前のクライマックスに戻ろう。第4クオーターの残り1分1秒、ニックスのリッチー・ゲーリンがフリースローを終えたあと、ウォリアーズのガード、ガイ・ロジャースからのパスを受けたチェンバレンはシュートを外してしまう。100得点を前にしてこれが2度目のミス。しかし今度はオフェンス・リバウンドをキープした。(ここでもパスは控えセンターのジョー・ラクリックという説あり。リバウンドはチェンバレン本人説と控えガードのテッド・ラッケンビル説の2通りあり)。

 チェンバレンはこの混戦の中でピボットを駆使して3度目のシュートを試みるがこれも入らない。ところが22歳のラッケンビルが必死になってオフェンス・リバウンドを拾った。彼の背番号は12。写真ではチェンバレンの横にその姿が確認できる。たった2シーズンしかNBAに在籍しなかった若者が手にしたボールは、206センチなのにひたすらポイントガード役に徹していたラクリックへ戻される。そしてこの年を最後にNBAを去る無名の23歳は、ゴール下にいたチェンバレンを見つけてパスを出した。実はこの歴史的なアシストにも(1)バウンズパスと(2)ループパスの2通りの説がある。

 さらに論議を呼んだのは100得点目がダンクだったかどうかだが、記録係を担当していたウォリアーズの広報、ハービー・ポラック氏は「ダンクではない」と否定している。最後に落ち着いた表現は「両手でリングの上に置いてくるようなシュート」。しかしラストショットの写真をよく見ると、チェンバレンは背伸びをするように右手だけの「プチ・フック」で軽くボールをリングの中に入れたようにも思える。コービー・ブライアントの81得点目はフリースローだったことを世界中のファンが目撃しているが、なにしろチェンバレン本人が「最後のシュートはよく覚えていない」と言っているのだから、あとは想像するしかないのである。

 残り46秒。ついに1試合100得点という快挙が達成された。ここで試合は5分間中断。チェンバレン自身は「もういいだろう」と言わんばかりの顔してベンチに戻ってきたが、このとき肩や腰には興奮した4、5人のファンが抱きついていた。ちなみに98得点目のアシストをしたラレーゼ、貴重なリバウンドをマークしたラッケンビル、100得点目のアシストをしたラクリックは、ウォリアーズのフランク・マグワイア監督が時間の進行を止めるためにコートに送りこんだ反則専用の刺客。3人合わせて計260試合のNBA出場歴があるが先発は全員0で、だからこそ大記録のために自己犠牲が払えたのである。いやむしろ彼らのような名もないロールプレーヤー(控え選手)がいたからこそ、チェンバレンは大記録にたどりついたと言ったほうがいいかもしれない。

 試合が終わるとポラック広報は「何か100得点を表現できるものはないか?」というAP通信のポール・バシス・カメラマンのリクエストに応え、記録席の上にあった紙に「100」と書いてチェンバレンに手渡した。それがあの有名な「チェンバレンと100点ペーパー」のワンショットである。

 ポラック広報はこのあと試合会場に来なかったフィラデルフィア・インクワイアラー紙、ニューヨーク・ポスト紙、ニューヨーク・タイムズ紙、AP通信、UPI通信の各記者に電話をかけ、ハーシーで起こった大事件を報告。これだけでも大変な作業である。1社10分としても正味50分。彼の熱意がなかったら、チェンバレンの記録達成はもっとおぼろげな存在になり、その44年後にブライアントが歴代2位の記録を樹立したときに比べるべきディテールが欠落していたことだろう。息子を抱きながら誰もいない記録席でメモをとっていたチームの広報は、後世に記録と記憶を残した陰の立役者だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

続きを表示

2020年4月18日のニュース